あなたのために
「お前達の婚儀は来春となる。」

 泰明の目の前であかねと頼久は一瞬、目を大きく見開いて驚いた後、すぐにあからさまな落胆の色を見せた。

 それはそうだろう。

 二人が心待ちにしていた婚儀の日取りがなんと来春と決まったのだから。

 二人の婚儀を来春と決定したのは他でもない、泰明自身である。

 だが、落胆する二人を目にして泰明はうっすらとその表情を曇らせた。

「あの、泰明さん、どうしても来春まで待たないといけないんですか?」

 尋ねてきた神子の顔を見た泰明はよりいっそう険しい表情を浮かべた。

 誰が見ても今の神子は悲しげだ。

 表情は曇り、その瞳は少しばかりうるんでいるようにさえ見える。

 そんな神子を見ているのがつらくて、泰明にしては珍しく話している相手から視線をそらした。

「縁起が悪い日に神子は婚儀を執り行いたいのか?」

「そ、それは嫌ですけど…。」

「吉日が来春までそろわないのだ。あきらめろ。」

「はい…。」

 更に落ち込む神子になんと言っていいかわからず、泰明の顔が苦しげに歪む。

「神子殿、泰明殿のおっしゃることに間違いはありますまい。来春に執り行えば吉兆とのこと、気を落とされませんよう。」

「あ、はい。」

 頼久に励まされて一瞬微笑んだ神子は、すぐにまたうつむいて沈み込んでしまう。

 泰明はそんな神子を見て更に表情を曇らせた。

 神子によって心を与えられてからまだあまり時がたっていない泰明にとって、複雑な感情はいまだ手に余る。

 泰明は険しい表情のまますっと二人に背を向けた。

 そしてそのまま足早に立ち去ろうとする。

「あ、泰明さん、あの…。」

「帰る。」

 再び悲しげな声で呼び止める神子の方を振り返ることもせずに泰明は歩き続け、神子の屋敷を後にした。

 これ以上、ここにいることはできない。

 神子が悲しむ姿を見続けることなどできない。

 そんないたたまれなさにさいなまれて、泰明はひたすら歩き続けた。

 平和の訪れた京は歩いているだけでも心地いいのに、泰明の心が晴れることはなく、その足は自然と自分の庵へと向かった。

 行き交う人々の顔は楽しげに微笑んでいるというのに、泰明の脳裏をちらつくのは落ち込んだ神子の顔。

 道端に生える名もなき草さえ美しい花を咲かせているというのに、己の心は暗く沈みこんだまま。

 泰明は不機嫌そうな、それでいて苦しそうな顔のままで己の庵への道を歩み続けた。

 神子のおかげで己の内に心を宿して以来、泰明は師である晴明の元を離れ、自分の庵を結んで一人で暮らしているのだ。

 そんな自分の庵へ戻った泰明は自分の腕を枕に縁に乱暴に寝転がる。

 何重にも結界を張って守ってあるこの庵は泰明にとっては師の庵と同じくらい安らぐはずの安全な場所だが、その顔には険しい表情が浮かんだまま消えない。

 いつまでも泰明の脳裏に浮かぶのはがっくりとうなだれ、涙さえ浮かべそうな神子の顔だ。

 このように惑った時、以前ならばすぐに師が気付き、何かと助言を与えてくれたものだった。

 だが、今、この庵に泰明は一人。

 誰かが泰明に気付き、そっと道を指し示してくれるということはありえない。

 目の前に構えられた小さな庭は平和な限りで、泰明に何も語ってはくれない。

 見上げる空も、ただひたすら青く冴え渡っているだけで泰明の心に答えを与えたりはしてくれないのだ。

 泰明は深いため息をついた。

 何を見ても、何を考えようとしても浮かんでくるのは神子の悲しげな顔ばかり。

 神子が与えてくれた心はその神子のことばかりを想っている。

 それを泰明自身はどうすることもできなくて、ただただ深いため息ばかりが口をついて出てくるのだ。

 こんな時、師ならばなんと言っただろうか?

 ふと泰明は真剣にそう考えてみた。

 考えろ。

 師ならばそう言うのではないだろうか?

 自分がどうなっているのか、そして自分はどうすべきかを考えろ、と。

 そう思いついた泰明はすっと身を起こすと、今度は胡坐をかいて座り、じっと庭をにらみつけた。

 与えられたばかりの己の心は神子を想い、神子の悲しげな顔だけを脳裏に映し出す。

 神子の悲しげな顔が脳裏に浮かぶたびにこの胸は苦しく痛むのだ。

 ならば、と泰明は更に考えを進める。

 あの神子の悲しげな顔を微笑ませることができたなら、この胸の痛みは消えるのではないか?

 神子が自分へいつも向けてくれたあの微笑を取り戻しさえしてくれたなら。

 そうだとして、いったいどうすれば神子の笑顔を取り戻すことができるというのだろう?

 神子は頼久との婚儀が先延ばしになったことを悲しんでいた。

 それは吉日が三日そろわないのだからしかたのないことだ。

 だが、自分に何かできることはないのだろうか?

 神子が喜ぶよう、なるべく婚儀を早く執り行えるように何か自分にできることはないのか?

 何か、陰陽師として在る自分ならば何かできることがあるのではないか?

 そう思ってみても泰明にはどうしていいのかわからない。

 ふっと息を吐き出して泰明は立ち上がった。

 そして、今戻ってきたばかりの庵を出ると、何迷うことなく歩き出す。

 もし、自分に何かできることがあるとして、何ができるのかを知っているのはやはり師、安倍晴明しかいない。

 泰明はやはりどうあっても師の力を借りねばならない自分に歯がゆい思いを抱きながら、師の庵を目指して重い歩を進めるのだった。





「手がない、とは言わぬ。」

「お師匠!教えてほしい、どうすればいいのかを。」

 泰明から全ての事情を聞き終えた師、安倍晴明は御簾の向こうで静かにたたずんでいた。

 それはいつものことだ。

 平素と違うのは泰明の方だった。

 以前の泰明ならば師に対してこんなに声を荒げたりはしない。

 だが、今の泰明は今にも御簾の向こうへ飛び込んでいきかねない勢いだ。

「吉日でなくとも術でしっかり守ってやれば婚儀が執り行えぬことはないが…。」

「どうすればいいのだ?!」

「泰明よ、お前は本当にそれでよいのか?」

「?」

 今まで師に飛びつかんばかりだった泰明の勢いが急に衰えた。

 泰明自身にも己の内の気の流れが変わったことがわかった。

 師の一言に自分が動揺しているのを感じる。

「術を使い、無理をして神子の婚儀を早める。お前は本当にそれでいいのか?と、問うておる。」

「……。」

 泰明は師の言葉を真剣に考えた。

 師が決して無駄な言の葉を紡がない人物であることは泰明自身が最もよく知っている。

 自分はそれでよいのか?

 師に問われた言葉を己の胸の内で反芻する。

 良いに決まっている。

 そうすれば神子は幸せになり、以前のような微笑を取り戻す。

 それが何より自分が今望んでいることのはずだ。

「婚儀が早まれば神子が喜ぶ。神子が喜べばあの顔に笑みが戻るであろう。私はそれを望んでいる。」

「ふむ、泰明よ、よく考えよ。お前が望んでいるのはつまり神子の笑顔。婚儀が早まることではあるまい?」

「……婚儀が早まらねば神子は笑顔を取り戻せぬ。ならば私が神子の笑顔を望む以上、神子の婚儀が早まることを望むのは当然のことだ。お師匠は何が言いたいのだ?」

「…泰明よ、よくよく考えよ。」

 それ以上何も語らず、晴明は黙ってしまった。

 こうなってはこれ以上、何を問いかけても師が決して答えることがないだろうことを泰明は経験から知っていた。

 もうこちらの方を見てさえもいないだろう御簾の向こうの師に軽く一礼して泰明は庵を後にした。

 今はこのままこの庵に留まることさえ許されないのだ。

 己一人の足で立ち、頭で考え、心で思って生きること。

 それは師の望みでもあり、自分の望みでもあったから。

 師が何を言いたかったのか、泰明にはまだわからなかった。

 自分の庵へと足を進めながらも必死に考える。

 だが、答えは霧の向こうに隠れているように見えなくて、それでいて師が言いたかった答えは確かにあると頭のどこかでわかっているような気はするのだ。

 なんともいえない気持ちの悪さを紛らわそうと泰明が空へと視線を上げたその時、晴れ渡った青空の中天に輝く日が欠け始めるのが目に入った。

 それは不吉の前兆。

「神子!」

 叫ぶが早いか泰明は何も考えずに神子の屋敷へと駆け出していた。

 神子の屋敷を守るために張ってある結界に異常がないことはわかっているが、それでも日が欠けるなどという不吉な事態は神子にどんな影響を及ぼすかわからない。

 泰明は周囲の人々が不吉な前兆に慌てふためいているのにはかまわずにただひたすら駆けた。

 何か起こってからでは遅い、早く神子の元へ。

 ただ頭の中にあるのはそれだけだ。

 駆けて駆けて、息が切れるのもかまわずに駆けて、ようやく神子の屋敷へたどり着いた泰明はその庭の一角から御簾の向こうに二人の人影が寄り添っているのを発見した。

 泰明は自分でもわからないうちにはっと物陰に身を隠して様子をうかがう。

 御簾の向こうにはどうやら神子と頼久が寄り添って座っているようで、二人からは妖しげな気配も気の乱れも感じない。

 結界も無事、屋敷も少々騒がしいがたいしたことは起こっていないようだ。

 何事もなかったかと泰明が安堵のため息をついた刹那、神子の様子を心配したらしい女房がやってきて局の中をうかがうために御簾をすっと持ち上げた。

 その瞬間、泰明は頼久の膝の上で幸せそうに微笑む神子の笑顔を見た。

 女房は中の平和な様子を確認するとすぐに立ち去り、御簾は元へ戻された。

 だから、泰明が神子を見たのはほんの一瞬。

 だが、その一瞬の神子の笑顔が泰明の瞳に突き刺さった。

 それは泰明がさきほどから恋焦がれていた神子の笑み。

 以前と変わらぬ幸せそうな、優しい神子の笑顔だ。

 まるで光を放つような、それでいて清らかで尊い神子の笑み。

 その笑顔を見ることができたというのに泰明は自分も気付かぬうちに両の目から涙を流していた。

 流れる涙を手の甲でぬぐい、それを見つめて泰明は更に涙を流す。

「……そういうこと、か…。」

 今初めて、泰明は師が何を問うていたのかに気付いた。

 神子の笑顔はその顔に戻った、それなのに今の泰明の胸は神子が沈み込んでいるのを見た時よりも遥かに痛みを増していた。

 己が望んでいたのは神子の笑顔、それは間違いない。

 だが、それは自分の手によってもたらされるであろう笑顔だった。

 他人の手によってもたらされる笑顔では意味がない。

 婚儀を早める、それがどのようなことを意味するのか、今の泰明にはよくわかる。

 それは自分以外の者の手で、神子の夫となる男の手によって神子に笑顔がもたらされるということ。

 そんな神子の笑顔を見て自分がどのような想いに駆られるのか、泰明は想像しただけで胸が苦しくなり、零れ落ちる涙を止めることができない。

 神子を守るのは自分でありたかった、神子に笑顔をもたらす者は自分でありたかった、できることなら今からでも自分が神子の唯一人の人間に…

 そう思ってしまう自分に気付いて泰明は唇を噛む。

 そんなことを思ってもしかたがないことも、そんなことを神子に望めば神子が悲しむだけだということもわかっているのに、自分の中にある想いを止めることができない。

 だが、神子にこの想いを知られてはならない。

 知られれば神子が苦しむことに、悲しむことになる。

 泰明は止まらぬ涙と戦いながらも、神子の屋敷を後にした。

 胸の痛みを抱えるように自分の肩を自分で抱きながら、よろよろと泰明は自分の庵へと歩き出す。

 涙は止まらず、胸の痛みも消えない。

 全てに気付いてしまった今、泰明には自分をどうすることもできなかった。

 こういう時、どうすればいいのかを教えてくれるであろう神子はもう他人のものなのだ。

 自分がおいそれと泣き付いていい相手ではなくなってしまった。

 そう思えばまた涙はあふれて止まらなくて。

 やっとの思いで自分の庵へ戻った泰明は、階に座り込むとそのまま泣き崩れた。

 神子が頼久の側にいたいがためにこの京へ残ったと聞いた時、神子が頼久の許婚となったと聞いた時、どちらも泰明の頭はそういうものかと理解したはずだった。

 ならば自分は心を与え、自分を人間にしてくれた神子の幸せのためにどんなことも尽くそうと、そう決意したはずだった。

 その想いは決して嘘などではなかったのに、それなのに涙は止まらない。

 悲しみが薄れる気配もない。

 神子が幸せそうにしているのは良いことだと頭ではわかっているのに、心はそう想ってはくれないのだ。

 そう知った泰明は、ただひたすら泣き続けた。

 道理や意思とは別の心というものが、己の思いのままに動かせるようなものではないのだと改めて知った泰明はこの日、一日中泣き明かした。

 涙が枯れる頃にはきっと胸の痛みもやわらいでいるだろう。

 そんな淡い期待を持って一晩を泣き明かした泰明は、朝陽で青白く染まる空をぼーっと見上げて再び涙を流した。

「神子…。」

 口をついて出たのはその一言のみ。

 心の中に住まう想いが一晩の涙などで消えるものではないのだと、泰明はこの日、日の出と共に悟った。

 いつかこの胸の痛みが薄れることなどあるのだろうか。

 今の泰明にはそんな日が来るとは思えなかった。

 これから先、己はこの胸の痛みを永遠に抱えながら生きていくのだ。

 泰明はそう確信して再び涙を流すのだった。





 ところが、その日の午後、物陰からだけでも神子の無事を再度確かめようと神子の屋敷へ向かった泰明は、その屋敷の前で一人の男に出会い、自分の考えを根底から覆されることになった。

「泰明殿、昨日の日が欠けた一件でこちらにおいでかな?」

 珍しくうつむき加減で歩いていた泰明に声をかけたのは左近衛府少将橘友雅。

 相変わらず華麗な出で立ちで牛車から降りたばかりの友雅は一瞬驚いたように目を見開いてから、ほほぅという顔をして泰明へと歩み寄った。

「恋の病に一夜を泣き明かしたという顔かな?」

「なんの話だ?」

「私にも身に覚えが全くないわけではないのでね。」

「……。」

「まぁ、世慣れていない陰陽師の泰明殿のことだ、思いつめてもしかたがないがね。失恋の痛手は新しい恋で癒すものと相場はきまっている。」

「新しい恋、だと?」

「そうそう。堅苦しく考えずに、今は失恋の痛手に酔うのもいいが、早々に次の恋の相手を探すことだね。」

 そう言って手にしていた扇をぱちんと鳴らすと友雅はからからと笑いながら、屋敷の中へと姿を消してしまった。

 一生抱えて生きていくのだろうと己が想っていた胸の痛みは次の恋で打ち消される儚いものなのだということを聞かされた泰明は、しばし呆然とその場に立ち尽くし、次にのろのろと自分の庵に向かって歩き出した。

 人の心というものはわからない。

 それが今の泰明の正直な思いだった。







管理人のひとりごと

一度は書きたかった泰明さん主役のお話。
本当は泰明×あかねになる予定だったんですが…
無理でした(^^;
ということで一人心を持て余して悩む泰明さんの図です。
ちょっと暗いお話になったので最後は少将様にしめて頂きました(爆)
おかげさまで多少ほのぼのとした終わり方になったかと(^^)




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