
朝、出発した時はからりと晴れていた空。
それが、昼を前にして曇天となった。
あかねは馬上で空を見上げた。
どう見ても、これから天気が良くなってくれそうな気配はない。
「曇って参りましたが…屋敷へ戻られますか?」
背後から聞こえてきた低い艶やかな声は大好きな旦那様のもの。
あかねは今、馬に二人乗りで散歩の最中だった。
それというのも、最近、京の女性らしくなるためとあかねが屋敷にこもりきりになっていたからだった。
もともと闊達なあかねのことを気遣って、頼久が天気のいい休みに外へ連れ出したというわけだ。
馬に乗ったのはせっかく出かけるのだから少しばかり遠くまでと思ったから。
牛車を使わないのはもちろんあかねのためだ。
馬に二人乗りなのは牛車を使わずにあかねを安全に移動させるため。
安全という意味では頼久が自らあかねのそばについて離れないのが一番なのだから、馬に二人乗りは当然の結果といえた。
あかねはというとこの状況をとても喜んでいた。
仕事でいつも忙しくしている頼久とこんなふうに二人で出かけることができるのはあかねにとって幸せ以外の何物でもない。
「ん〜、大丈夫じゃないですか?藤姫も占いでは今日は私にとってなんだかいいことが起こる日だって言ってたし、泰明さんも一日お出かけしてきていいですかって聞いたら問題ないって言ってましたしたし。」
京を救った元龍神の神子であるあかねには二人の強力な術者がついている。
といっても藤姫は星見の姫としてあかねの身に起こるであろう吉凶を占うことができるというだけなのだが、その藤姫が占いで良いことがあるだろうという方角へ二人は出かけていた。
あかねにとって藤姫の占いはとても頼りになるものだったし、頼久も星見の姫の腕を疑ってはいない。
更に、稀代の陰陽師安倍晴明の弟子である泰明が問題ないと断言したのだから、もうあかねは恐いものなしだ。
「では、もう少し辺りを散策して参りましょう。」
「はい。」
頼久の提案にあかねは幸せそうにうなずいた。
辺りには夏を思わせる草の香が漂っていて、とても心地がいい。
少しくらい天気が崩れてきたからといって、人気のない自然の中を散策する心地よさを手放す気にはなれなかった。
結局、二人は仲良く微笑を浮かべて自然豊かな田舎を馬に乗ってゆっくり散策したのだが…
頼久が心配したように、曇天はどんどん暗く垂れ込めて、もう一度帰るべきではないかと頼久が進言しようとした時には、二人の体をぽつりぽつりと雨粒が打ち始めた。
「あれ、降ってきました?」
「はい、申し訳ありません。」
「へ?どうして頼久さんが謝るんですか?」
「私がもう少し早く神子殿を屋敷へお連れしていれば…。」
「ああ、もぅ、それは私がこのまま散歩でいいですって言い張ったからで、頼久さんのせいじゃないじゃないですか。」
「いえ、無理にでもお連れするべきでした…。」
うなだれる頼久の顔は久々に八葉としてあかねに仕えていた頃のものに戻っていて、あかねはその顔を見上げながらぷっと膨れて見せた。
「頼久さんのせいじゃありません!頼久さんはちゃんと帰った方がいいんじゃないか?って言ってくれたじゃないですか。それでも帰らないって言ったのは私なんですから。」
「いえ、従者たるもの、それでも主の身を思うのであれば…。」
「だから!頼久さんは従者じゃないですから!って、こんな話してる場合じゃないかも…。」
いつもならここであかねのお説教が始まるところだけれど、今はそれどころではない状況に陥りつつあった。
何故なら、雨足が刻一刻と強くなり始めていたからだ。
最初は霧雨程度だった雨粒はみるみるうちに大きくなって、これはもう大降りになることは間違いないと断言できるほどになっていた。
「これは、本降りになりそうです。神子殿のおっしゃるとおり、どこぞで雨宿りをすることを考えなくては。」
「そうですね、このままじゃびしょぬれになっちゃう。」
「ここへ来る途中、寺がありました。そこで雨が弱まるのを待ちましょう。」
「はい。」
「では、失礼致します。」
「へ?」
何を失礼するの?とあかねが問う間もなく、頼久の右腕があかねの体を抱き寄せた。
あかねが急に何をするのかと抗議しようとした刹那、馬が勢い良く駆け始める。
頼久はあかねの体を右腕一本でしっかりと固定して、左腕一本で馬の手綱をさばき、もの凄い速さで馬を走らせ始めたのだった。
あかねは自分を固定してくれている頼久の右腕に手を添えて、しっかり前を見ていようと努めた。
今はそうして少しでも頼久の負担にならないようにしていることがベストだと判断したからだ。
馬を走らせること数分。
頼久が言っていた寺が見えてきた。
激しい雨に打たれて二人はその寺へ駆け込み、頼久は馬をつなぐとすぐに寺の中を覗き込んだ。
ギシッと木がきしむ音がして、頼久が押し開いた扉の向こうには人の気配はない。
落ち着いて辺りを見回してみれば、どうやらここは廃寺のようで、寺の周囲も雑草が生えてずいぶんと荒れていた。
「ひょっとして空き家、ですか?」
「そのようです。ですが、屋根はまだしっかりしているようですから、雨はしのげましょう。神子殿は中へ。」
「はい。」
あかねは頼久にいざなわれて寺の中へと入った。
確かに屋根はしっかりしているようで、雨漏りなどは見当たらない。
ただ、中は薄暗くてあまりいい雰囲気ではなかった。
カタリと音がして、あかねの背後で扉が閉まった。
もちろん頼久が閉じたのだ。
扉が閉じると雨の落ちる音が遠くに聞こえて、壁で閉ざされた寺の中は別の世界のように感じられた。
「しばらくは強く降りそうです。神子殿、ここへお座り下さい。」
頼久が射籠手を脱いで床に敷き、そこにあかねは素直に腰を下ろした。
そんなふうに気を使わなくてもいいですと昔なら抗議したところだけれど、そうやって抗議したところで頼久が譲ってくれないだろうことはとうの昔に学習していた。
その代わり、と、あかねは座ってから頼久の顔を見上げた。
「頼久さん。」
「はい。」
「隣に座ってくれませんか?」
頼久が一瞬目を見開いて、それから考え込み、あかねをじっと見つめてから小さく息を吐いた。
頼久がそんなふうに溜め息をついた時は何かを妥協した時だと心得ているあかねの顔に笑みがともる。
「外にて警護致したいところですが…。」
「イヤです、こんなところに一人でいるなんて…。」
「承知致しました。」
苦笑しながら頼久はあかねの隣に腰を下ろした。
頼久の方もあかねはこうと言い出したらきかない性分だと心得ている。
それに、この雨ではどんな曲者も外を出歩きはしないだろうというほどの大雨だ。
外で警護するのは確かに武士の務めだが、夫としては妻の隣にいることもまた務めだろうと考えられる程度に頼久の頑なさが和らいでいた。
「凄い雨ですねぇ。」
「夏が近いですから。」
「あ、そっか。もう夏の雨なんですねぇ。」
始めは雰囲気が悪いと思った荒れ寺の中も、頼久と二人ならなんだかステキな空間に見えてしまって、あかねは遠くに響く雨の音に耳を傾けていた。
誰もいない空間に大好きな人と二人きり。
そんな環境は京にはなかなかなくて、なんだかとても幸せな気分になってしまう。
雨の音が大きいせいで、寺は外の世界とは壁と音の二つで遮られているようで…
「神子殿、寒くはありませんか?」
隣から聞こえたのは耳に心地よく響く優しい声。
普段は厳格な武士から放たれるその声は、あかねの耳に果てしなく優しく、そして幸せを滲ませて聞こえた。
「少し肌寒いかなぁ。」
本当に寒いというよりは肌寒い雰囲気に飲まれているといった方がいいかもしれない。
何しろ外はもの凄い雨音で、寺の中は薄暗い。
寒くて凍えるというわけではないと言葉を重ねようとしたあかねは、そっとその肩を頼久に抱き寄せられた。
「よ、頼久さん?」
こんな場所で何をするのかとあかねが顔を赤くすれば、頼久の声はいつもと変わらず穏やかな響きを持ってあかねの耳になるほど納得の理由を告げた。
「火を起こせばよいのですが、火をつけるものが辺りには見当たりません。こうしていれば少しはましかと。」
「あ、ああ、なるほど…。」
慌ててあかねが納得すると、頼久は小首を傾げて何かを考え込み、それからクスッと笑みを漏らした。
驚いてあかねが頼久を見上げる。
すると至近距離にあった頼久の顔には優しい微笑が浮かんでいた。
「何を想像なさったのですか?」
「な、な、何ってそんな…なんでも…っていうか言えません!」
あかねは自分の膝を抱えると真っ赤な顔でうつむいた。
何を考えたのかといわれれば、二人きりでこんなところで抱き寄せられて、それはもうあまーい雰囲気に雪崩れ込むのかと思ってしまったのだ。
なんと言っても夫婦なのだし、そういうことがあったって不思議じゃない。
不思議じゃないはずだけれど、源頼久という人の人柄を考えればこんなところで甘い雰囲気なんかなるわけもなく…
あかねは一人はしゃいだ自分が恥ずかしくて、下がった視線を上げることができなくなってしまった。
「友雅殿であれば…。」
「どうしてそこで友雅さんが出てくるんですか…。」
あかねは上目遣いに頼久を見上げながらつぶやくようにそう言った。
夫の口から友雅の名前が出るとたいていろくなことにならないと思っているからだ。
よく二人のことをからかいにくる友雅と自分のことを比べては頼久は自分が至らないと嘆いたりする。
あかねにしてみればそんなことは全くなくて、いつだって自分の旦那様が一番だと思っているからいつもそのことを力説しなくてはならないのだ。
ところが、今回の頼久はあかねが予想していたのとは違う反応を見せた。
「いえ、友雅殿ならばこのような折には神子殿のお望みどおりのことができるのでしょうが、無骨者の私にはできませぬゆえ、この程度でお許し下さい。」
「はい?」
許すっていったいなんのことだろう?とあかねが視線を頼久へ向けた瞬間、視界が真っ暗になって、唇に優しいぬくもりを感じた。
あっという間に視界が元に戻って、あかねの目に頼久の笑顔が映る。
一瞬、呆然となって、それから何が起こったのかを理解したあかねはあっという間に顔を真っ赤にして再び視線を伏せた。
とてもではないけれど恥ずかしくて自分の肩を抱いてくれている人の顔をまっすぐ見てはいられなかったから。
「神子殿?お気に障りましたか?」
慌てて問う頼久になんとか首を横に振って答えて、あかねは恥ずかしいのを精一杯我慢して頼久の方へと更に身を寄せた。
そうしなければきっと頼久は自分をを怒らせたのだと勘違いしてしまうだろうとわかったから。
そんなあかねの想いはどうやら頼久にちゃんと届いたようで…
頼久はあかねの肩を抱いている腕に力をこめた。
「やはり通り雨でございましたね。泰明殿のおっしゃるとおりでしたわ。神子様、帰りは難儀なさってないといいのですけど。」
「問題ない。」
「でも、雨の後は道がぬかるんでいるものですし…。」
「剣の腕も馬を操る腕も武士団で随一の者がついているのだ、問題ない。」
土御門邸の濡れ縁には安倍泰明の姿があった。
そしてその背後にある御簾の向こうからはまだあどけない少女らしさを残した愛らしい声が聞こえている。
声の主はもちろん藤姫だった。
「神子様、楽しんで頂けているでしょうか…。」
「なるほど、それで頼久には休みが出たわけか。」
そう言いながら姿を現して泰明の隣に座ったのは友雅だった。
相変わらず繊細な指先で髪の端を弄びながら面白そうに微笑を浮かべている。
「神子殿に夫と二人、楽しい一時を過ごしてもらおうという藤姫の心遣いだったわけだ。」
「友雅殿、このようなところにいらっしゃってよろしいのですか?」
手厳しい言葉が藤姫の口から紡がれるのは最近ではいつものことで、友雅は柳に風と受け流す。
「まあね。藤姫のその心遣いのおかげで今日は一日中、主上の警護をさせられたのだから、終わった今となっては少しくらい労ってくれてもいいと思うのだけれどね。」
「友雅殿はいつも休んでおいでですから、たまにはまじめに働いていただかないと。」
「これはまた手厳しい。」
手厳しいと口ではいいながらも楽しそうに微笑んでいる友雅に泰明が不審そうな目を向けたその時、パタパタと愛らしい足音が聞こえたかと思うと、話題の渦中にあった人物が姿を現した。
「あ、友雅さんに泰明さん、お久しぶりです。」
春風のように清らかで愛らしい声の主は元龍神の神子たるあかね。
そしてその背後には黙して語らぬながら、二人の姿を見て一礼する頼久が立っていた。
その昔は常に敵を探すような目つきで辺りを見回し、体中から棘のような殺気を放っていた男。
そんな頼久の今の様子や、朗らかな声を発して歩いてくるあかねの姿を見れば、藤姫の心遣いが功を奏したかどうかは一目瞭然だ。
友雅の顔に浮かぶ笑みが深くなるのと同時に御簾が跳ね上げられて、奥から藤姫が顔を出した。
「神子様!ようこそおいでくださいました!」
「これはこれは、私が来ても時候の挨拶さえなかったのに、神子殿がおいでになったとたんに花の顔を御簾の外へ出すとは、藤姫もつれないねぇ。」
「それは友雅殿の普段の行いが悪いからですわ。」
ピシッと言い放つ藤姫とそれに対して微笑を浮かべ続けている友雅とを見比べて、あかねは頼久と視線を交わした。
怨霊と戦っていた頃からは想像もつかないような穏やかで幸せに満ちた土御門邸の濡れ縁。
そこに集うのは気心の知れた仲間と大好きな人達。
そんな穏やかな場所で友雅だけでなく頼久とあかね、二人の顔にも穏やかな微笑が浮かんでいるのをただ泰明だけが不思議そうな顔で眺め続けていた。
管理人のひとりごと
管理人の生息地も蝦夷梅雨なんぞと呼ばれているヤツがやってまいりまして…
毎日なんだかじめじめと蒸し暑い火が続いたのでなんとなく雨もの書いてみました。
まだ間に合ってますよね?(^^;
突発的に書いてるのでちょっと短め。
お話も特に何か脈絡があるわけではない感じですが…
なかなか二人きりになれない環境の京で二人きりになったあかねちゃんと頼久さんをお楽しみ頂ければ幸いです♪
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