
頼久は書斎にこもってパソコンの前に座っていた。
いつものように朝食をあかねと二人で済ませて、テレビを見て二人で楽しく会話を交わし、あかねの家事を手伝う。
それが午前中の過ごし方。
昼食をあかねと二人で食べた後は頼久の仕事時間になる。
もちろんこれもいつもの生活なのだが…
今日ばかりはよほどのことがない限り、書斎から出てはいけないと新妻に宣言されてしまった。
頼久にしてみれば新妻の愛らしいお願いをきかないわけがなく、こうして書斎にこもっているというわけだ。
当然のことながら頼久にはこなさなくてはならない仕事があるので、パソコンの画面はその仕事内容を映し出しているのだが…
先ほどから漂ってくる甘い香りに頼久の顔は緩みっぱなしで、パソコンの画面は変化を止めていた。
いつも頼久と共にいれば幸せそうにしているあかねがどうして頼久を書斎に閉じ込めたのかといえば、それは今日がバレンタインだからだった。
そう、今現在あかねはキッチンで手作りチョコレートを製作中なのだ。
頼久の書斎にまで漂ってくる甘い香りはそのあかねが調理しているはずのチョコレートの香りだった。
バレンタインにはこれまでもあかねから何度かチョコレートをもらっているが、今年のバレンタインは頼久にとってまた格別だった。
何しろ、ドアの向こうに自分のためにチョコレートを作ってくれているあかねの気配を感じていることができるのだから。
夫婦とはいいものだと改めて感じている頼久は、急ぎではないのをいいことに仕事そっちのけで幸せな一時をじっくり楽しんでいた。
あかねは湯煎したチョコレートと格闘を続けていた。
朝から予定を頼久に伝えておいたから、今はしっかり集中してチョコレートを作ることに集中できている。
一日中書斎にこもっていてくださいというのはちょっと申し訳ない気がしたけれど、作っている過程を贈る相手に見せるのはどうしても避けたかった。
頼久は事情を話すと快く書斎にこもってくれたので、あかねは予定していたチョコレートを黙々と作ることになった。
作り方は詩紋に聞いてあるし、バレンタインのチョコレートを手作りするのはこれが初めてというわけではない。
特に戸惑うようなこともなく、手作りチョコレートは完成への道をたどっていた。
頼久は京という場所で育ったせいか、一般の男性のように甘いものが苦手ということはない。
それどころか、どちらかと言えば好きな方だ。
京では甘いもの自体がとても貴重で高価なものだったから、頼久にとっては嫌う理由がわからないといったところらしい。
だからあかねは心置きなくバレンタインのチョコレートを作ることができた。
頼久は甘いものが好きだけれど、それでも子供っぽい味にするのはなんだかイメージが違っていたから、あかねが作っているのは洋酒をきかせた大人っぽいチョコレート。
湯煎にかけたチョコレートを混ぜていると、甘い香りが漂ってきて、それだけでなんだか浮かれた気分になるのを止められない。
あかねは口元に笑みを浮かべながらよく溶けたチョコレートを型へと流し込んでいった。
夜。
家の外は寒さが増したらしく、庭には雪がちらついているのが見える。
あかねはチョコレートを作った後、夕飯の支度も済ませて頼久の書斎のドアをノックした。
「頼久さん、晩御飯できました。」
そう声をかければ、そっと開いたドアの向こうから頼久が姿を現した。
何度か書斎へお茶を運んだりはしたけれど、一日中、二人の時間をほとんど持たなかったあかねは、なんだか新鮮な気持ちで頼久をリビングへ迎えた。
「有り難うございます。」
「あの……お仕事、終わりました?」
「はい、本日の分は終わりました。」
「じゃあ、夜はゆっくりできますね。」
「はい。」
そんな会話を交わしながら夕食の席について、二人は微笑みを交わした。
テーブルの上にはあかねが作った料理の数々が並んでいて、料理自体はいつもと変わらない。
だからこそ、食事の後の行事が楽しみでしかたがない二人は、食事の間もたいした会話も交わさないのに、その顔には笑みが浮かんだままだった。
焼き魚や煮物がメインの和食の夕食をゆっくり済ませると、その後は二人きりのゆったりとした時間だ。
あかねに促されて頼久はリビングのソファに座り、キッチンで紅茶をいれるあかねの姿をじっと見つめた。
いつもならそのままお茶を運ぶあかねは、今日ばかりは冷蔵庫から手作りのチョコレートを取り出してそれを綺麗な皿に乗せている。
そんな様子さえ愛しくて、頼久は笑顔であかねの作業を見守った。
「あの、わかってたとは思うんですけど、頼久さん、ハッピーバレンタインです。」
あかねはそう言って頬を赤く染めながら頼久の前に紅茶とチョコレートを置いた。
それを受け取る頼久はといえば、きちんと姿勢を正してから、あかねに深々と一礼した。
「有り難うございます。」
こうしてきちんと一礼する律儀さはこちらへやってきても頼久の変わらないところだ。
そんな頼久ににっこり微笑んで、あかねは頼久の隣へと腰を下ろした。
「食べてもよろしいでしょうか?」
「もちろんです。食べてもらうために作ったんですから。」
「では、頂きます。」
今度は律儀に手を合わせてから頼久はチョコレートを一粒口へ運んだ。
今までの笑顔とはうってかわって真剣な表情なのはあかねだ。
何しろ手作りだ。
しかも頼久を書斎に監禁してまでして作ったチョコレートだから、もし口に合わなかったらと思うとあかねは無意識のうちに真剣な顔で頼久を見つめていた。
「どう、ですか?」
たかだかチョコレート一つなのに、口に入れてからずいぶんと長いこと頼久は口を開かなかった。
だから、不安になったあかねが恐る恐る声をかけたのだが…
「……おいしいです。」
それは心の底から驚いたらしい頼久の一言だった。
あかねの質問に答えるまでの間と、囁くような低い頼久の声が何より頼久の驚きを表していた。
「本当においしかったですか?」
あかねが思わず確認してしまったのは、頼久の普段の態度が原因だ。
二人の共通の友人である天真が言うには、頼久はたとえ泥団子だったとしてもあかねが作ったものならおいしいといって食べかねない人間らしい。
そこまでではないとしても、あかねも自分が作ったものを頼久がまずいということはおそらくないだろうと予想はできる。
だから思わず確認してしまったのだが…
「お疑いですか?」
「へ…。」
思いがけず頼久の発した剣呑な声に、あかねは思わずおかしな声をあげてしまった。
そうしてあかねが呆気にとられている間に、頼久はもう一粒チョコレートを口に入れる。
パクパクと食べることで本当においしいと示してくれているのかも?
と、あかねが心の中で思っていると、あっという間にその唇が頼久に塞がれてしまった。
驚いて頭が真っ白になっているうちにあかねの口の中には甘い小さな塊が入ってきて…
「おいしいと思いませんか?」
唇を離して悪戯っぽく微笑みながら言う頼久を見て、あかねは一瞬ぽかんと目を見開いてからすぐに顔を真っ赤にした。
口移しでチョコレートを食べさせられたのだと気付いてしまってはもう、あかねは恥ずかしくて言葉を発することもできない。
そんなあかねの様子を微笑みながら見つめていた頼久は、そっとティーカップをあかねに差し出した。
「どうぞ。」
「有り難うございます。」
ティーカップを受け取って口の中に残っている甘さを紅茶で流してしまえば、あかねもやっとほっと一息つくことができた。
同じように紅茶で一息ついたらしい頼久は、ニコニコと幸せそうに微笑んだままだ。
「これで本当に私がおいしいと思ったのだとわかって頂けたかと思いますが。」
「わ、わかりましたけど……おいしかったですけど…心臓に悪いです。」
「本当に私は幸福だと、そう思いましたので、あかねにも伝わればと…。」
「頼久さん…。」
突然聞こえた真剣な声に、あかねはじっと頼久を見つめた。
「あかねがこのチョコレートを作っている間、書斎にも甘い香りが漂ってきました。京ではそのようなことはめったにありませんでした。特に武士の身であった私にはなおのことです。」
「京では甘いものって貴重品でしたもんね。」
「はい。それが、今ではこうして愛しい方の手で作って頂いたものを口にすることができるのです。その瞬間を待つ間さえも、なんと幸福なことかと思っておりました。」
「そ、そんなことくらいで幸せになってくれるなら、毎日でも甘いもの作っちゃいます!」
思わず張りきってあかねがそういえば、頼久は愛しそうに微笑を浮かべてあかねの肩を抱き寄せた。
「お気持ちは嬉しいのですが、今の私の生活では消費しきれそうにありませんので、もう少し間を空けて頂いた方が…。」
「あ、そうですよね……確かに…。」
「もしくは共にどこかへ出かけていただいても構いませんが。」
「一緒に、ですか?」
「はい。それならば楽しく甘いものを消費できますので。」
「それじゃあ、甘いものを食べた日は一緒にお散歩っていうことにしましょうか?」
「そうして頂ければ、私の幸福は倍になります。」
「そ、それはちょっと大げさですけど…。」
この場に天真がいたなら、一人で運動するという選択肢はないのかと突っ込まれそうな会話を交わして、二人は微笑み合った。
こうして源家には、頼久があかねの手作りの甘いものを食べた日は、夫婦そろって散歩をするという新たなルールが誕生したのだった。
管理人のひとりごと
はい、滑り込みのバレンタイン短編です!
気が付いたら14日でした!
まぁ、いつものことです…
結婚して初めてのバレンタインを過ごすお二人の様子です。
いちゃついてますな(’’)
ということはホワイトデーもきっといちゃついてるに違いないと想像しつつ…
管理人は何故か左手の薬指の第一関節が痛いので、早々に休憩に入ります(’’;
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