
船の上で暮らしていると水の音はいつも聞こえているもののような気がする。
もちろん、雨と波とでは音が違うのだろうけれど、よほどの雨にならない限り船の中に響くのは波の音ばかりだ。
千尋は自分の部屋でいつものように波の音を聞いて目を覚ました。
始めのうちは揺れやこの波の音になじむのに少し時間がかかったけれど、慣れてしまえば揺れは心地いいほどで眠るにはうってつけ。
おかげで今では自分の部屋で熟睡することができるようになった。
食事のしたくは仲間達が当番せいでやってくれるから千尋の仕事というものが実は現在、はっきりとあるわけじゃない。
だからゆっくり体を起こした千尋は、髪を整えて服を着替えていつものように部屋から出た。
するとそこは……
「な、何?なんでこんなに水浸しなの……。」
いつものように廊下に出た千尋はあたり一面がやたらと湿っぽいことに気付いて立ち尽くした。
まさか船に浸水?
そう予想して一瞬青くなったけれど、よくよく辺りを見回せば別に水が流れてきているわけではないらしい。
でも床のみならず壁や天井までなんだか湿っていて気持ちが悪い。
いったい何をどうすれば廊下がこんなに湿っぽく濡れてしまうのか。
千尋が何がどうなっているのかと小首を傾げていると…
「お、姫さん、お目覚めだな。」
「サザキ、おはよ、う?」
ニコニコといつものように機嫌よさそうに千尋の方へと歩いてくるサザキ。
でも、そんなサザキの様子がいつもと違って千尋は目を丸くした。
水浴びでもしたのか近づいてくるサザキは全身ずぶ濡れの状態だ。
「おっと姫さん、そこから動くなよ。」
「え?なんで?」
千尋が尋ねるのと同時にサザキは翼を大きく広げるとそれをばさばさと羽ばたかせた。
すると…
「ちょっ、サザキ!濡れちゃうじゃない!」
「いや…でもこうしねーとオレが風邪ひくんだな、これが。」
「水浴びするのも泳ぐのも勝手だけど、ちゃんと翼は拭いてよ!」
「水浴びって……いや、甲板にいただけだぜ?雨降ってんだ、かなりの勢いでな。」
「ああ、雨降ってるんだ…って……どっちでもいい!とにかく濡れているんならちゃんと拭いて!そんなにぶるぶる水飛ばしたら辺り一帯水浸し…に……ああああ!」
ここで千尋は気付いた。
そう、この辺がずっと湿っているのはたぶんこのせい。
日向の男達が甲板で作業をして、濡れた翼をバタつかせて水を飛ばしたのだろう。
中間達みんなが当たり前のように今のサザキと同じことをしたのなら、廊下の天井までもが湿っていても不思議はない。
「もぅ、みんな大雑把なんだから!」
「いや、でもな、姫さん、俺達の翼はそう簡単に拭けねーっていうかなんというか…。」
「まぁ、確かに自分の翼を自分で拭くのはちょっと難しい、か……じゃ、サザキ。」
「あ?」
千尋が自分の部屋の扉を開けてにっこり微笑んでいるのを見て、サザキは小首を傾げた。
この船では一応、サザキと千尋は夫婦ということになってはいるのだが、サザキが千尋の部屋に入る回数はそんなに多くはない。
もちろん千尋が嫌だといっているのではなくて、サザキがなかなか踏み込めないでいるだけのことだから、こうして千尋が誘うのは別に不自然なことではなかった。
不自然なことではないのだが、この部屋に入るとなるとサザキには相当の覚悟が必要で…
「入って?」
「んぁ、あぁ……。」
とうとう千尋に腕を引かれてサザキが中へ入れば、何をどうしたものかと緊張しているサザキの翼にバサリと大きな布をかぶせて、千尋はその翼をガシガシと拭き始めた。
「ひ、姫さん?」
「自分で拭くのが難しいからああやって飛ばしちゃうんでしょう?だったら私が拭いてあげる。痛かったら言ってね?」
「お、おう。」
痛いなんてとんでもない。
千尋が優しく丁寧に水気を拭ってくれるその動作はサザキの翼にはとても心地良くて、うっとりしてしまうほどだ。
こんなふうに雨を拭ってもらえるならもう数時間甲板の上に立っていたってかまわない。
そんなことまでサザキが考えながらボーっと幸せに浸っていると、あっという間に翼全体を拭いて、羽根を整えた千尋は満足そうに一つうなずいてからサザキの正面へ回った。
「はい、これで風邪はひかないと思う。」
「お、おう。」
「大変だねぇ。翼があると空が飛べてステキだなぁって思ってたけど、濡れた時は自分でふけないしけっこう大変なんだね。」
「そ、そうでもねーさ。姫さんにこんなふうに手入れしてもらえるんならな。」
「うん、これからはいつでも言ってね。私が綺麗に整えてあげるから。」
「そ、そうだな。そうさせてもら……。」
「そうだ!」
赤い顔でサザキが千尋に手を伸ばそうとしたその時、パンと千尋が手を打って何かを思いついたように目を輝かせた。
そして、すぐに新しい布をたくさん抱えるとサザキににっこり微笑んで見せた。
「廊下があんなにびしょびしょになるくらいなら、私がみんなの翼を拭いてあげればいいんだよね。」
「あん?」
「ちょっと行ってくるね。」
「いや、姫さ……。」
サザキが止める間もなく、千尋は大量の布を抱えて部屋を飛び出していった。
一瞬呆然と立ち尽くしたサザキが慌てて後を追う。
すると、しばらく歩いたところで二人の人影を発見した。
一人はもちろん千尋。
そして…
「やっぱりカリガネもなんだね。カリガネはけっこう几帳面だから何とかしてるかと思ったけど、自分で自分の翼はふけないもんねぇ。ちょっとだけじっとしててね。」
千尋が優しく翼を拭いている相手はカリガネだった。
どうやら甲板から調理場へと降りていくカリガネを千尋がみつけて捕まえたものらしい。
困ったような顔でそれでもおとなしく千尋に翼を拭われるカリガネを見つめて、何か声をかけようとしたサザキはすぐに思い直して反対側の通路から姿を消した。
そんなサザキの後ろ姿に気付いたカリガネが不機嫌そうに顔をゆがめる。
「カリガネ?痛かった?」
「いや……嫌な予感がした……。」
「へ?何?この雨が嵐になるとか?」
「いや……別の嵐が……。」
「別の嵐?」
「いやいい…なんでもない…。」
とりあえずカリガネの不機嫌さは自分の行動のせいじゃないらしいと察して千尋は素早くカリガネの翼についている雨水を拭った。
だいたい水気をとった羽根を綺麗に整えていると、そんな二人の様子に気付いた日向の男達がいつの間にか二人の周囲に集まってきた。
「あれ、みんな……。」
「姐さん、まさか……。」
と、何か恐ろしいものを見たような顔をしている仲間達に千尋はキョトンとした顔で小首を傾げる。
そして、一層不機嫌そうになったカリガネが一同を一睨みした。
二人を囲んでいた男達が「ひっ」と息を呑む。
「助かった、もういい。」
「あ、うん、みんなも濡れてるね、拭いてあげようか?」
にっこり微笑んで千尋がそういえば、男達は互いに顔を見合わせて一瞬考え込んだかと思うと、いっせいに千尋ににじり寄った。
『お願いします!姐さん!』
「ああ、うん、みんな拭いてあげるから順番ね、並んで並んで。」
楽しそうに千尋がそういうと、我先にと先を争って男達が並び始めた。
その様子を見て深い溜め息をついたカリガネが調理場へ向かうべく足を動かしたその時……
「まったぁっ!」
早速先頭の仲間から翼を拭おうと構えた千尋の耳にサザキの声が聞こえてきた。
人の列を掻き分けて千尋の前に立ったサザキは全身ずぶ濡れだ。
「サザキ?どうしたの?」
「姫さんはオレの伴侶だ!」
「へ、あ、うん。」
「オレの宝だ!」
「た、宝って……。」
「だから、オレが先だ!」
「え?」
宝だなんていわれて千尋が照れていると、サザキは必死の形相で千尋の腕をつかんで歩き出した。
「ちょっ、サザキ、さっき拭いてあげたのにどうして濡れてるの?」
「濡れてきたからだっ!」
「はい?」
何がなんだかわけがわからないという表情の千尋の手を引いて、サザキは先を歩いていたカリガネを追い越すとそのまま千尋の部屋へと姿を消した。
そんな二人を見送ったカリガネが振り返ってみると、そこには一列に並んだまま呆然と立ち尽くす男の群れがあった。
カリガネは深い溜め息を一つついて仲間達にしっしっと手を振って解散させると、千尋の部屋の前を通って調理場へと急いだ。
千尋の部屋からは一瞬、千尋がサザキを説教する声が聞こえてきて、カリガネはその声を聞いた一瞬だけ口元をほころばせたのだった。
管理人のひとりごと
梅雨企画サザキバージョンでした♪
サザキの場合は実年齢はともかくとりあえず駄々っ子で(’’)(マテ
それを見守ったりとばっちり受けたりするカリガネ。
カリガネはそんな役回り、常に(コラ
千尋ちゃんは男所帯だとたぶん面倒見屋さんになると思うのですよ。
みんな平等に面倒見ちゃうからサザキが一人でハラハラしてると(w
そんな感じです♪
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