風早は目の前の光景に苦笑せずにはいられなかった。
目の前に広がっているのはいつもと同じと言ってもいい景色。
山のように積まれた竹簡と、それと格闘する主の姿。
従者である風早が毎日当たり前のように見ている風景だが、今日ばかりは朝からこんな光景を目にするとは思っていなかったから、苦笑が漏れるのをとめられなかったのだ。
何故なら、今日は忍人の生まれた日、つまり誕生日だからだ。
千尋はこの日が来るのを何週間も前から楽しみにしていて、プレゼントは何にしようかとそれはそれは真剣に考えていた。
その姿を見ていただけになおさら風早はどうしていいのかをじっくり考え込んでしまった。
午後を忍人のために空けようとしてこんなふうに仕事を朝から怒涛のようにこなしているのか?
それとも、せっかくの誕生日だと言うのに忍人が気のきかないことを言って千尋を怒らせたのか?
何が原因でこんなことになっているのかがわからなかった。
誕生日を祝うために時間を空けたいならこんなことをしなくても一日くらいなら何とでも調整できた。
なんといっても誕生日は急にやってくるわけではないのだから。
では、忍人が何か千尋の気に障ることをしたのか?
誕生日を祝うという習慣をもともと持っていない忍人だから忘れていたくらいのことはありそうだ。
けれど、そんなことで千尋が誕生日を祝わないという選択をするほど怒るとは思えなかった。
何がどうして千尋は今、自分とあいさつを交わしただけで仕事に没頭しているのか?
風早はうかつなことは口に出して言わないように気にしながら千尋の様子をじっとうかがった。
すると…
千尋は必死に仕事をしているように見えて、竹簡はあまり進んでいなかった。
開いて必死に読もうとはしているものの、視線は字面の上を滑るばかりで、どうやら内容が頭に入っていかないらしい。
風早はそんな千尋の前に陣取ると苦笑を微笑に変えた。
「今日はずいぶんと朝から頑張ってるんですね。急ぎのものはなかったと思いましたが。」
「うん、急ぎってわけじゃないの…。」
軽い会話の空気で問いかけた風早に千尋は少しばかり沈んだ声で答えを返した。
風早はそんな千尋に穏やかな笑みを浮かべて、正面から綺麗な瞳を覗き込んだ。
「今日は確か、何週間も前から楽しみにしていた忍人の誕生日だったと思いましたが?」
「うん。だから、仕事してるの。」
「は?」
瞬時に風早の脳裏に嫌な予感が降臨した。
忍人の誕生日だから仕事をしている。
けれど身が入らないとなれば…
「えーっと、忍人の誕生日だから仕事をしているというのは…。」
「忍人さんに誕生日のプレゼント、何にしたらいいか凄く考えたの。」
それは風早が一番よく知っている。
何しろ千尋の一番近くにいて、それこそ恋人よりも近くに長くいて、その姿を見守ってきたのだから。
「それでね、思いついたの。忍人さんが一番喜ぶのって、私が王としてきちんと仕事をすることだろうなって。」
「だから、せっかく楽しみにしていた誕生日に忍人に会いにも行かずに仕事をすることにしたんですか?」
なるべく呆れたという口調にならないように気遣う風早に千尋はこくりとうなずいて見せた。
そのうなずきがまるでうなだれているように見えて、風早は千尋に気付かれないように小さなため息をついた。
忍人の堅い性格はよく理解していたつもりだが、誕生日のプレゼントとして恋人に仕事をしてほしいと言うような人間ではないと信じたい。
いや、忍人なら真剣に喜ぶかもしれない。
ちらりとそんな考えがよぎって、風早は今度こそはっきりとしたため息をついてしまった。
「風早?」
「なんでもありません。千尋がそれが一番いいと思ったのならそれでいいですが…いいんですか?せっかくの誕生日におめでとうも言わないで。」
「それは…夕飯を一緒に食べようと思っててお願いしてあるから…だから、その時に言えればいいかなって。」
「わかりました。それなら夕飯を楽しみにして千尋は仕事を頑張ってください。」
「うん、有難う。」
「俺はちょっと用があるので出てきます。何か手が必要でしたら柊辺りをよこしますが…。」
「大丈夫。必要な時には自分で呼ぶから。」
「わかりました。では、また後で。」
千尋にいつもの笑顔を見せて、風早は執務室を後にした。
背に感じる千尋のその気配さえもうなだれている気がして…
風早はその微笑を消した顔に厳しい表情を浮かべると、足早に目的地へ向かって歩き出した。
千尋は午前中を集中できないながらも必死に仕事をして過ごした。
目の前に積まれている竹簡が少しばかり減ったのを眺めながら千尋が「うーん」と伸びをしたその時、執務室の扉越しに声が聞こえた。
『千尋、まだいるだろうか?』
「はーい。」
ちょうど軽く昼食にしようと思っていた矢先でもあって、千尋はすぐに席を立つと扉を開けた。
「へ、忍人…さん?」
千尋は扉を開けた状態で目の前に立つ人の顔を見上げて凍りついた。
そこに立っていたのはいるはずのない人だったからだ。
見上げてみればその顔にはなにやら難しそうな表情が浮かんでいる。
さて、自分はこの恋人に叱られるような何かをしでかしただろうかと、千尋が一瞬で顔色を青くしている間に、忍人は一つ小さな溜め息をついた。
「まず、中へ入れてはもらえないか?」
「ごめんなさい!どうぞ!」
慌てる千尋とは反対に落ち着き払っている忍人は部屋へ入るとすぐに千尋を椅子に座らせた。
「あの…。」
「君が朝から仕事詰めだと風早に聞いた。」
「ああ、はい…それが何か?」
まさか仕事をしていて叱られることはないだろうと千尋が小首を傾げると、忍人は今度こそ深い溜め息をついた。
「君は今日は俺が生まれた日だからと何度も何度も俺に言い聞かせていたと思うが?」
「はい、それは、確かに…。」
「忘れないようにと何度も念を押されもした。」
「はい…。」
「そして俺の生まれた日は一緒に祝おうとも言われていたはずだ。」
「言いました…。」
「で、どうして君は朝から仕事に埋もれているんだ?まさか俺の生まれた日を祝うための時間を作ろうとして、というわけではないだろうな?」
「違います!」
とんでもない予想を立てられて、千尋は慌てて否定した。
夕食の時に今日は一日忍人さんのために仕事をしていましたと話すつもりでいたのに、このままではせっかくの誕生日が台無しになってしまう。
千尋は慌てて身を乗り出すと、正面から忍人をじっと見つめた。
「違うんです!今日は忍人さんが生まれた日だから、その…お祝いをしたくて…。」
「それと、君がいつにもまして仕事を抱えるのとはどんな関係があるんだ?」
「その…忍人さんに何か贈り物をしたいなって考えたんですけど、忍人さんが欲しいものなんて思いつかなくて、それで…。」
「それで?」
「私がちゃんと仕事をしているのが一番、忍人さん、喜ぶかなって思ったんです…。」
だんだん小さくなる声で千尋がやっとそう言うと、普段から不機嫌な顔でその表情をなかなか変えない忍人の目が大きく見開かれた。
これは呆れられたかもしれないと千尋がうなだれかけたその時、忍人は小さく息を吐いた。
「なるほどな。それでか。」
「それで?」
「さっきまで俺は風早の説教を聞いていた。」
「はい?」
「俺の君に対する態度が間違っているだの、君に要求することが間違っているだの、自分が育てた姫に間違いはないだのと、果てはよくわからん話まで聞かされた。」
「か、風早…。」
「どうして今になってそんなことを言い出したのかと問いただしても答えようとしない。しつこく聞けば、ここへ来ればわかると言ったので急いで来てみた。」
「ごめんなさい。私のせいで風早がなんか…暴走したみたいで…。」
「いいや、来てみればなるほど、確かに風早の言うことにも一理ある。」
「は?」
「どうやら君の目には俺は、君に対して良き王であることしか望んでいない男に映っているようだしな。」
「そんなことは…。」
ないとは断言できなくて、千尋はしゅんとうつむいた。
恋人のことをそんなふうに思っているなんて、そんなのはどうなんだろう?と考えてしまったから。
ところが、落ち込む千尋の手が忍人によって掴まれて、千尋の体は自然と椅子から立ち上がった。
「忍人さん?」
「出かけよう。」
「はい?」
「俺は別に君に王としての価値しか見出していないわけじゃない。」
「そ、それはわかってます…。」
「わかっていないようだから出かけるといっている。」
「えっと…。」
「生まれた日を祝うための贈り物など、君の時間で十分だといっているんだ。」
そう言い放つと忍人は千尋の手を引いてさっさと歩き出してしまった。
千尋が慌てて足を速めて隣に並ぶと、ほんのりと赤く染まった忍人の横顔が見えた。
どうやらテレながらもデートに誘ってくれているらしいとわかったとたん、千尋の顔には幸せいっぱいの笑みが浮かぶ。
その笑顔を横目でちらりと確かめて、忍人も口元を緩めると、握った手をしっかり離さぬように外へ向かって歩を進めるのだった。