嵐の中で
 千尋にとって目下、一番大切な人である葛城忍人は今、おそらくは千尋が欠片ほども想像していないだろう状態にあった。

 天から降る雨はまるで空から流れる川のようで、忍人自身ずぶ濡れだし、彼の目の前にいる兵士達ももちろん同様にずぶ濡れだ。

 地面はぬかるみどころか池のように大きな水溜りがいくつもできていて、足下はおぼつかない。

 視界も雨で煙っていて見通しもきかない。

 それどころか、風にあおられた雨が目に入るからしっかりと目を開いていることさえ難しかった。

 そんな中でずぶ濡れになりながら何をしているのか?

 葛城忍人が雨の中ですること、それは一つだけ。

 そう、訓練だ。

「そこ!動きが鈍いぞ!」

 誰もが目を開けているだけでも必死な中で、忍人は兵全体を見渡している。

 少しでも動きが鈍っているものはすぐに指摘され、それでも動きが戻らなければ忍人の怒声を浴びることになるのだ。

 晴れている日よりも雨音のせいでその怒声が小さく聞こえることは兵士達にとって多少の慰めにはなったけれど、それでも訓練が厳しいことに変わりはない。

 バシャバシャと兵士達が水溜りを踏む音が響き、あちこちで金属がぶつかり合う耳障りな音がする。

 そんな中で忍人は辺り一帯を見回して兵士達が皆真剣に訓練していることを確認した。

 この訓練にたどり着く前にかなりの人数の兵士が脱落している。

 ここに残っている者達は脱落することなくこれまでの訓練に耐えてきた猛者たちばかりだ。

 とはいっても、まだまだ雨の中の訓練では思うように戦えない者もいて、やはり雨の中の訓練を強行しておいてよかったと忍人は一人うなずいた。

 兵士達の健康を考えればこのような訓練はしないほうがいいのかもしれないが、戦がいつも晴れた日に起こってくれるとは限らない。

 雨の中でこんなふうに視界が悪いとなれば、おのずと経験がものをいうのだ。

 兵士達を死なせないためにもこの訓練はやはりやっておいてよかったのだ。

 そんなふうに忍人が自分の判断に自信を深めていると、急激に辺りが光って、次の瞬間、ゴロゴロと不穏な音が響いた。

 兵士達がいっせいに空を見上げる。

「全員剣をおさめよ!今日のところはこれで終了とする!」

 忍人がそう言えば兵士達はいっせいに「おーっ」と声をあげて、そそくさと武器を片付け始めた。

 雨や風はともかく、雷まで鳴ったとあっては訓練もここまでとの忍人の判断だ。

 雷の下で戦うことはないのかと問われれば、確かにそういった状況もあるかもしれないが、雷が落ちて死人が出たのでは貴重な戦力を失うことにもなりかねない。

 忍人は兵士達が全員引き上げを始めたのを確認して、自分も宮へと足を向けた。

 兵士達の訓練が滞りなく終了したことを自分の主でもあり、この国の王でもあり、自分の婚約者でもある人に報告しなくてはならない。

 濡れた衣服を整えてから向かうべきか否かで少しだけ悩みながら歩いた忍人は、待たせてはいけないと濡れたままの姿で報告に向かうことを決めて宮へと足を踏み入れた。

 少し奥まった場所にある王の執務室へ向かって忍人が歩いていると、すれ違う官人達は皆驚いたような顔で忍人を振り返った。

 それもそのはず、全身ずぶ濡れの忍人は髪も乱れていたし、その顔色も真っ青だった。

 中には葛城忍人その人だとわからない者もいたかもしれない。

 それでもそんな外見になっていることになど気を止めず、忍人は千尋の執務室の前に立った。

「陛下、葛城忍人、参りました。」

 律儀にも扉の前で忍人がそういえば、あっという間に扉が開いて、花のような笑顔の千尋が顔を出す。

 いつもならそこですぐにどうぞといって中へ誘ってくれるところなのだが…

「忍人さんっ!」

 花のような笑顔を一瞬にして打ち消した千尋は、さっと顔色を変えて大声を出した。

 何事かと忍人が顔をしかめるのと、千尋の背後から従者である風早が顔を出すのは同時。

 そして次の瞬間、風早が苦笑を浮かべると千尋が忍人の腕を力いっぱい引っ張って部屋の中へ引きずり込んでいた。

「陛下?」

「なんて格好してるんですかっ!」

「これは…兵を鍛えておりましたので……。」

「……。」

 どうということではないと言いたげな忍人の言葉に千尋は口をパクパクさせるだけで声が出せなかった。

 全身ずぶ濡れ、髪はぐちゃぐちゃ、足下は泥だらけで顔色は真っ青だ。

 凍り付いてしまった千尋の代わりに忍人に雨を拭うための布を手渡したのは風早だった。

「忍人、仕事熱心もいいけれど、少しやりすぎじゃないかな?」

「いや、雨の中で戦うことは決して少なくない。現に、今回も身動き一つ満足にできない兵もいた。経験をつんでおけばそれだけ実戦では生き残る可能性が高くなるのだ。少しくらいつらくともやはり訓練は積んでおくべきだろう。」

「そういうことを言ってるんじゃ……。」

 そう言って風早は苦笑しただけで、訝しげな顔をしている忍人にそれ以上説明しようとはしなかった。

 何故なら、風早がそんなことを説明している余裕はなかったからだ。

 忍人が風早になんのことだと問い詰めようとしたその時、千尋が忍人に体当たりしたかと思うと、そのずぶ濡れの体にギュッと抱きついた。

「千尋?」

「…やめてください。」

「何を…。」

「こんな無茶な訓練、やめてください。」

「いやしかし…。」

「みんなが訓練しておかないと危ないってわかります、わかりますけど、こんなこと続けてたら忍人さんが…忍人さんが……。」

 決して離すものかといわんばかりの強さで自分に抱きつく千尋に驚きながらも、忍人は千尋が何を言いたいのかに気付いた。

 こんなことを続けていたら忍人さんが倒れてしまう。

 そう言いたいのだ、千尋は。

「俺ならそう簡単には……。」

「ダメです!忍人さんだって人間なんですから病気になっちゃいます!」

「千尋…。」

「やめてください、もう本当に…。」

 千尋の最後の言葉は声が震えていて聞き取れないほど小さくて…

 忍人はどうやら千尋が泣いているらしいと気付いて、驚きで目を見開いた。

 すると、今まで様子を見守っていた風早がポンっと忍人の肩を軽く叩き、苦笑を残して出て行った。

 どうやらこの後のことは自分に任せられてしまったらしいと気付いて、忍人は軽く溜め息をついた。

 忍人にとって泣いている女性を慰めるという作業は決して簡単なものではない。

 そういったことは絶対に風早の方が得手だと胸を張って言えるほどだ。

 だが、腕の中にいるのは自分の婚約者であり、主でもある女性なのだから泣かせてしまった責任は取らなくてはならないだろうということくらいはわかる。

「千尋、まず、離れてくれないだろうか?」

「イヤです、だって、離れたら忍人さんがいなくなっちゃいそうで恐いから…。」

「俺は決していなくなったりはしない、君と共に生きていくと、そう約束したばかりのはずだ。それに、このままこうしていると君まで濡れてしまうことになる。」

 そう言って忍人はなるべく優しく千尋を自分の体から引き離した。

 そうしてみるともう千尋の服はしっとりと忍人の服から雨の雫を吸い取ってしまったようで…

「やはりもう少し濡れてしまっている。」

「そんなことどうでもいいです。それより、忍人さんがちゃんと拭かないと。」

 千尋はそういうと忍人がただ手に持っているだけだった布でぺたぺたと忍人の体を拭い始めた。

 驚いたのは忍人だ。

 恋仲になって口づけくらいは交わすようになったものの、こんなふうに全身に触れられるのは初めての事で、服の上からとはいえこれにはさすがの常勝将軍も面食らった。

 必死になってあちこち拭こうとする千尋の手を優しく止めて、忍人は小さく溜め息をつく。

 まったくこの目の前の美しい王は自分が何をしているのかに気付いていないことが多くて困る。

「千尋、これだけ濡れていては拭いても無駄だ。後で着替えるからもう…。」

「じゃぁ、今すぐ着替えてください!このままじゃ命の危険はなくたって風邪ひいて倒れちゃいます!」

「わかった、わかったから…。」

 目に涙を浮かべて見上げられて、一瞬息を呑んだ忍人は、やっとの思いで我に返って千尋の前にひざまずいた。

「本日の訓練、滞りなく終了致しました。午後の見回りも特に問題はありません。陛下にはお心安くお過ごし下さい。」

 そう言って深く頭を垂れる忍人。

 驚いて目を丸くしていた千尋は、数秒後、その愛らしい口を開いた。

「お仕事、お疲れ様でした。」

 これがいつもの儀式。

 忍人が仕事の報告という名目で許婚に会いに来るものだから、必ずこうして千尋もその報告を受けることになるのだ。

 そしていつもの儀式を終えた忍人がすっと立ち上がると、髪から雫が落ちて床を濡らした。

 どうやらまだまだ髪も拭くも盛大に雨水を吸ったままらしい。

「忍人さん、お願いですからもう…。」

「ああ、すぐに部屋で着替えてくる。それから、無理な訓練はあまりしないと約束する。」

「忍人さん…。」

 意外にもあっさりほしい約束をしてもらえて、千尋はその顔にやっと微笑を浮かべた。

 「あまりしない」という部分が気になるけれど、それでも忍人にしてみればかなり譲歩してくれたのだと思う。

「君にあまり心配をかけたくは無いからな。」

「有難うございます。」

 いつもならこんなふうに会話を交わした後、二人で楽しく夕食ということになるのだが、さすがに濡れたままの忍人と食事をすることはできない。

 忍人はつい今しがたの言葉通り自分の部屋で着替えようと扉の前に立って、それからすぐに振り返って千尋を見つめた。

 すっかり着替えに帰るものだと思っていた千尋が小首をかしげる。

「着替えて髪の雫を拭ったらすぐに戻ってくる。」

「へ、あ、はい、はい!待ってます!」

 これは自分を心配させないための言葉らしいと気付いて千尋はにっこり微笑んで見せた。

 いつもはとても厳しい人がこんなふうに自分だけを特別気遣ってくれることが嬉しい。

 ところが、これで満足して部屋を出るかと思われた忍人は、すぐ千尋に掠めるような口づけを贈った。

「お、忍人さん?」

「すぐに戻ってくる。戻ってきたら夕食を共に。」

「はい。」

「必ずすぐ戻る。」

「忍人さん……有難うございます。」

 本当に自分は大切に思われている。

 そのことを感じて嬉しくて。

 千尋の顔に自然な微笑が浮かぶと、忍人もその鉄面皮にかすかな笑みを浮かべて部屋を出て行った。

 入れ違いに入ってきた風早は千尋の顔を見て納得したように一つうなずいたのだった。








管理人のひとりごと

忍人さんが青い顔してたらもう理屈ぬきで死にそう!と心配してしまうんだろうなぁと(マテ
で、雨なんか降ろうものなら訓練日和!って言いそうだなと(マテマテ
忍人さんは常に軍隊のことばっかり考えてそうだからなぁ(’’)
まぁ、千尋ちゃんが忍人さんの体については考えてくれてるから大丈夫!というお話。
最後はちゃんと忍人さんも女心を解してる感じにしてみました。
某朴念仁武士よりはわかると思うんだ(’’)(コラ







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