
忍人は一人、二振りの剣を抜き放ち、空を切った。
切ってすぐに鞘へ戻し、息を整える。
もう何度この行動を繰り返したかわからない。
それでも息が整ったらまた同じことを繰り返す。
そう、忍人は人気のない森の中で今、一人で剣の修行の真っ最中だ。
中つ国は新しい王を迎えて確かに平和になった。
新しい王、千尋のおかげで常世も豊かな大地を取り戻し、今は小競り合いが多少あるくらいで戦もない。
国内もまだまだ先の戦の爪跡が残っているとはいえ、再興のペースは上々だ。
それでも、忍人が剣の修行を怠ることはない。
その真面目さは師である岩長姫にあきれられるほどだ。
もちろん、部下達にも訓練は怠らないようにときつく言い渡してある。
平和にはなった。
平和になったからこそ、今は気をぬいてはいけない時だ。
忍人はそう考えている。
今気を抜けば、また小さな争いごとが起こった時にそれを鎮められず、大きな戦に発展するかもしれないのだ。
それだけではない、今はもうどうしようもないほど大切だと思ってしまった人を守るためにも剣は必要だ。
だから、忍人は今も剣の修行を続けている。
周りの人間が厳しすぎるだの、戦バカだの、剣しか知らぬ愚か者よと自分を罵っていると知っても忍人は自分のやるべきことをやっているだけだ。
そう、自分の剣で大切な人を守れるのならいくらだって修行してやる。
忍人が決意を新たに呼吸を整えて剣の柄に手をかけたその時、すぐ側に人の気配を感じた。
ここは宮からそう離れてはいないが、それでも人がほいほいやってくるような場所ではない。
静かに一人で剣の腕を磨くために忍人が選んだ場所なのだ。
忍人は自分の気配を殺して耳を澄ました。
すると…
ヒュッ…トスッ
明らかに矢が放たれ、その矢が木に突き刺さる音がした。
こんな所で誰が何のために矢など放っているのか?
狩りでもしているのだろうか?
それにしてはこの辺りには獣の類の気配は皆無だ。
忍人は剣の柄に手を置いたまま、慎重に気配のする方へとゆっくり近づいた。
大きな木の陰に隠れ、音を立てないよう最新の注意を払って気配のするほうを覗き込む。
するとそこには…
「なんでちょっとだけ外れるかなぁ…。」
弓を手に深い溜め息をついたのは千尋だ。
忍人はあきれたような深い溜め息をついて剣から手を離すと、ゆっくりと千尋の方へ歩き出した。
「誰!って、忍人さん…。」
「誰?ではありません。供も連れずにこんなところへ陛下お一人で…。」
「だから、その呼び方止めてください。供も連れてなくて二人きりなんですから。」
今度は千尋が深い溜め息をつく。
やめてくれ、といわれても、千尋はもうこの国の新たな王なのだからいいかげん慣れてもらわなければ困る。
忍人も常日頃からそう言っているはずなのだが、千尋の方は忍人の言葉など完全無視だ。
「俺が君をなんと呼ぶかよりも君が供を連れていないということの方が大問題だと思うがな。」
「大丈夫ですよ、この辺は人気もないし。」
「だから問題だと言っているんだが?」
「あ、えっと…。」
これは困ったという顔でいいわけを考える千尋に忍人はまた溜め息をついた。
「で、供も連れずに我が王はこんなところで弓の練習をしていたのか?」
「あ、はい。いざという時のためにやっておかないと…しばらく使わないとどんどん下手になりそうで…。」
「君は、まだ弓が必要になると思っているのか?」
「そうならなきゃいいなって思います。でも、もしかしたら必要になるかも。確かにこの国は平和になりましたし、常世はアシュヴィンが立て直してくれてるからもう常世と戦になることもないと思いますけど、でも、これから先何があるかわからないでしょう?」
「……そういうことではない、これから先何があるかわからないというのは同感だが、君は王なんだぞ?」
「はい、そうですね。」
当然のことを何をいまさらと言いたげな顔の千尋。
忍人はあきれたように首を横に振った。
「君を守るのが我々武人の仕事だ。君には側近の風早や、軍師の柊もいる、布都彦もいる。君自身が弓を取る必要はない。俺がいる限り君に弓を持たせるようなことには絶対にさせない。」
「忍人さん…。」
何者からもこの王を、自分の大切な人を守ってみせるという忍人の真摯な視線と、千尋の戸惑ったような視線が交差して一瞬時が止まった。
二人の間に流れる微妙な空気を崩したのは千尋の方だった。
「わかってはいるんです、岩長姫にも言われました…大将は後ろでどんと構えていてもらわないと困るって。」
「師君のおっしゃるとおりだ。」
「それもわかるんです、わかるんですけど…でも、今までだってみんなで一緒に戦ってきましたよね?凄く危ないこともあったし、難しいこともあったけど、みんな一緒だったから乗り切れた。私一人じゃ絶対無理でした。」
「……。」
「私はみんなのこと仲間だって思ってます。私一人が凄く特別な人間ってことはないんじゃないかって。それはまぁ、私は王なんですけど、それ以外はみんなと同じ人間だし、戦う時はみんなと一緒にって思っていたいです。」
「……。」
「でも、弓一つちゃんと扱えないで一緒に戦うなんていえないでしょう?」
「言わないでもらいたいのだがな…。」
「ええっと…でも、いざっていう時、先頭に立って戦えない王にみんなはついてきてくれるでしょうか?忍人さんは私がそういう王だったら今までの戦い、ついてきてくれましたか?」
「それは…。」
答えは否だ。
忍人は主が千尋だからついてきた。
そしてこの国を再興できた。
よい仲間に恵まれたのも、神を相手に戦い、勝つことができたのも、この国がこうして今平和にあるのもみな目の前の王のおかげなのだ。
そしてその王は、忍人がこの方こそと思った王は部下を前線へ送り出して平気な顔をしていられる人物ではない。
戦いで傷ついた兵の痛みを思いやれる王なのだ。
そんな王だからこそ、いや、そんな女性だからこそ忍人は今、誰よりも千尋が大事だと思う。
「忍人さん?」
呼ばれて苦笑して、忍人はゆっくり千尋の背後に立つと弓を持つ千尋の手に自分の手を添えて弓を持ち上げた。
「君には完敗だ。我ら武人は君が弓を取らなくても済むようにいくらでも努力をしよう、だが、もしその努力が及ばなかった時は王も弓を取る、我らが王はそういう王だったな。」
「努力が及ばなかった時じゃないです、一緒に努力をする時、です。」
そう言ってきりりと表情を引き締めた千尋に忍人は苦笑を深くする。
本当にこの王にはかなわない。
「君の言いたいことはよくわかった。俺は布都彦ほど弓は得意じゃないが、それでも姿勢の指導くらいはできるだろう。」
「忍人さん…有難うございます。」
嬉しそうに微笑む千尋に一瞬見惚れて、忍人は慌てて添えている手に力をこめる。
もう片方の手で矢をつがえてゆっくり引いて、そして矢を放てば風を切って飛んだ矢は見事に正面の大木の真ん中に突き刺さった。
「あれぇ、さっきまで全然真ん中に当たらなかったのに…忍人さんに手を添えてもらっただけで当たっちゃうなんて…。」
「姿勢が悪いわけではないな…。」
「やっぱり弓ってこうやって手取り足取りしてもらうと凄くわかりやすいですね、口では表現できないなんとなく、がわかるから。」
手取り足取りという言葉に忍人ははっと我に返った。
そして自分の現状を見て思わず顔を赤くすると慌てて千尋から体を離す。
そう、忍人は今、千尋にぴたりと体を寄せて、両手に自分の両手を添えて、それこそ密着状態で弓を教えていたのだ。
弓を教えるのに夢中で気づかなかったが、普段女性には近づくことさえない忍人にとってそれは突然の接近だった。
「す、すまない、その…。」
「はい?」
「いや…。」
「教えてもらってる時はなんとなくわかるんですけど、しばらくして一人でやってみるとまたできなくなったりするんですよね。」
「姿勢は悪くない、引いている状態も、おそらく弓を放つ時の落ち着きだろう。実際、これまでの戦闘でもちゃんと集中している時、君は一度も矢を外したことはない。」
「そうでしたっけ?」
「ああ。弓は心を落ち着けて集中しないと当たらないものだ。」
「なるほど…勉強になります。」
弓を下ろして微笑む千尋は穏やかで、まるで春の陽射しのようだ。
それに見惚れて、そして我に返って、忍人はまた一人で顔を赤くした。
「忍人さん?」
「いや、なんでもない。それよりそろそろ戻った方がいい。風早辺りが君がいないと騒ぎ出すだろう。」
「あ、そっか、一人で黙って出てきちゃったし…怒られるかも…。」
「風早が君を叱るなどということはないだろうが…その時は俺が供についていたと言えばいい。」
「はい、有難うございます。って、そういえば忍人さんはどうしてこんなところにいたんですか?」
「俺も剣の修行をしていた。」
「うわっ、ごめんなさい!邪魔しちゃって…。」
「いや、邪魔ではない…。」
「本当に邪魔じゃないですか?」
「ああ。」
「それじゃぁ…。」
「ん?」
「またここに来て弓を教えてもらってもいいですか?」
「弓なら布都彦の方が…。」
手習いならば布都彦を師と仰いだ方がいいだろうと言おうとして、忍人は千尋の必死な視線に気づいて言葉を飲み込んだ。
「私は忍人さんと二人きりで教えてもらえたらなって、思ったんですけど…。」
二人きりで。
そう、王としての千尋は忙しく、忍人は部下の訓練で忙しい。
二人で会えることなどそうそうないのだ。
その二人の時間をこの人は望んでくれている…
「……わかった、だが、行き違いになっては時が無駄になる、弓を覚えたい時は呼んで欲しい。」
「はい!」
元気に返事をした千尋はとても嬉しそうで、愛らしい顔に浮かぶ満面の笑みを見て忍人は顔を赤くしながら歩きだす。
この人は王、早く宮に返さなくてはならない。
「行くぞ、風早達が騒ぎ出す前に戻る。」
「はい、でも…。」
「ん?」
「少しだけ遠回りしませんか?」
上目遣いにそういわれて、一瞬考え込んだ忍人は軽く溜め息をついてうなずいた。
「陛下の御心のままに。」
「陛下はやめてください!」
ぷっとふくれて見せた千尋は忍人の手をとって歩き出す。
こうして二人はゆっくり並んで少しだけ遠回りをして橿原宮へと帰っていった。
管理人のひとりごと
最前線の兵士達を思いやれる王だから忍人さんは千尋ちゃんを認めたのだと思うのですよ。
でも、王となったからには戦場へはあまりでてほしくないし、それ以上に大好きな人に危ない目にあってほしくなってのもあるわけで…
戦場に出ないような千尋ちゃんじゃなければ好きにはならなかったけど戦場にはもう出てほしくないみたいな二律背反な忍人さんの図(笑)
まぁ、結局のところそういう内面の苦悩は全く千尋ちゃんに見せない忍人さんなのでした(’’)
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