霧の向こう
 屋根をたたく雨の音が不規則なのがやたらと眠気をさそって、那岐はうとうとと眠りを楽しんでいた。

 こんなふうに眠れるうちは眠っておくに限る。

 そのうちイヤでも眠れない日が来るかもしれないのだから。

 窓の外は大雨で部屋の中は薄暗くて…

 だから眠るのには最高の環境だった。

 家の中には那岐一人きり。

 リビングのソファを独り占めできるのもいい。

 ソファの上に寝転んで足を投げ出して、那岐がさて深い眠りに入り込もうかとしたその時…

「降られたぁ。」

 愛らしい声をあげながらバタバタとリビングへ少女が駆け込んできた。

 「ちっと」舌打ちして那岐が起き上がれば、リビングの扉の前にずぶ濡れの千尋が立っていた。

「なっ……。」

「あ、那岐、先帰ってたんだ。那岐は降られなかった?」

「降られるも何も、僕は午後の文化祭準備はサボりだよ。降り出すかなり前に帰ってる。」

「ええええーー、ダメじゃない!」

「ダメなのはどっちさ。なんでそんなずぶ濡れなわけ?」

「だって、朝はすっごく晴れてたから傘なんて持っていかなかったんだもん。」

「置き傘くらいしてないの?」

「してないよ、邪魔くさいじゃない。」

「そんなずぶ濡れになるよりましだと思うけど……。」

 小さな声でそうあきれる那岐のことは無視して、千尋は何かを思いついたようにベランダへ駆け寄った。

 大きな窓から外を眺めると、更に強くなり始めた雨を背に那岐の方へと振り返る。

「那岐!大変!」

「今度は何?」

「風早っ!」

「はぁ?」

 いきなり千尋の口から飛び出した思いがけない名前に那岐の顔が歪んだ。

 風早。

 その名前は何故か千尋の口から流れ出る時、那岐の心を波立たせる。

「朝すっごく晴れてたから、風早も傘持って出てないよ!」

「だから何?」

「何って傘持って行ってあげないと風早も濡れちゃうじゃない!」

 髪の先から雫を滴らせている千尋が力説している姿に脱力しながら、那岐はゆっくり立ち上がると脱衣所へ向かった。

「ちょっと!那岐!聞いてる?!」

 怒ったように言いながら千尋が追いかけてくる気配を感じつつ脱衣所へ入った那岐は、棚からバスタオルを取り出すと追いついた千尋にそれを頭からバサリとかぶせた。

「ちょっ…。」

「あのね、そんなずぶ濡れの千尋が風早に傘を届けにいったりしたらあいつはその場で卒倒するよ?」

「それは…しないと思うけど……でも、心配はするね、うん……。」

「わかったならまず髪を拭く。」

 那岐のあきれた声を聞いて千尋はおとなしくバスタオルで髪を拭き始めた。

 どうやら濡れたまま風早に傘を届けるという無謀な計画はあきらめてもらえたらしい。

 那岐が一息ついて次は何をさせるべきかともう一度千尋を眺めてみると…

 髪を懸命に拭いている千尋はもちろん制服姿で、その制服がずぶ濡れになっている。

 夏服だからとても薄着で、白いブラウスが濡れているとどうなるか……

 雨に濡れた白いブラウスが透けてわずかに下着が見えていることに気付いて那岐は息を呑んだ。

 パジャマ姿でうろうろする千尋なら見慣れているし、干されている洗濯物の中に千尋の下着が混ざっているのを見るのも慣れている。

 でも、それを身に着けているのを見ることなんてもちろんあるはずもなく…

 次に千尋にさせなくてはならないことは着替えに決定だ。

 瞬時にそう判断するのと同時に那岐は溜め息をついた。

 千尋が自分を家族だと思って気を許してくれているのは知っているけれど、こうまで無防備なのはどんなものだろう?

 チクリと胸が痛むのを那岐は頭をかきながら意図的に無視した。

「千尋。」

「なに?」

「もう少し気にした方がいいんじゃない?」

「何を?」

 バスタオルの下から顔を出して小首を傾げる千尋。

 那岐は今度こそ思いっきり深い溜め息をついた。

「あのさ、白って濡れると透けるんだよ?自分を女の子だと思ってるなら気にしたら?」

「へ?」

 言われて初めて自分のかっこうを確認して、千尋は一瞬で顔を真っ赤にすると今まで頭からかぶっていたバスタオルを胸に抱きしめた。

「那岐の意地悪!スケベ!」

「ハイハイ。」

「先に言ってよ!」

「僕も今気がついたんだよ。透けてるのもどうかと思うけど、早く着替えないと風邪ひくよ。」

 そう言いながら那岐は脱衣所を後にした。

 透けた服を着ている千尋を眺め続けるつもりもないし、次の仕事も待っている。

 どうせ着替えを終えた千尋は風早に傘を届けに行くと言い出すに決まっているのだ。

 なら、その前に少しは体を温めてやらないと本当に風邪をひきかねない。

 那岐はキッチンに立つとヤカンでお湯を沸かし始めた。

 こんな時、風早ならどうしていたか?

 思わずそれを思い出そうとしている自分に気付いて「ちっ」と本日二度目の舌打ちをする。

 そんなことを考えないとこういう時に気遣いできない自分が疎ましくもあり、それでいいとも思う。

 なんだか複雑な気分になりながら那岐はマグカップにココアの粉を放り込むとそこに沸いたばかりのお湯を注いだ。

 確か千尋は甘いココアが大好きだったはずだ。

 昔、冬の寒い日、外でさんざん遊んで帰ってきた時に風早がいれてくれたことがある。

 それを嬉しそうに口にする千尋の笑顔が那岐の脳裏に甦っていた。

「那岐…あの……。」

「何?着替えた?」

「うん、あのね、さっきはごめんね。」

 背後から千尋の声がして振り向いて見れば、そこにはすっかり乾いた服に着替えてバスタオルを頭からかぶっている千尋が立っていた。

 ただ、もじもじとバスタオルを手でいじりながら上目遣いに那岐を見ている千尋はどうやらさっき罵倒したことを申し訳ないと思っているらしくて、うっすら頬も赤く染まっていた。

 那岐はそんな千尋に一瞬見惚れて「勘弁してよ」と心の中でつぶやいて、それからココアの入ったマグカップを千尋に手渡した。

「千尋がヒステリー起こすのはいつものことだから気にしてないよ。」

「ヒステリーって!」

「はい、風早に傘届けに行くならそれ飲んでからにして。」

「あ、有難う。」

 湯気の上がるマグカップを受け取って、千尋はキョトンとしていたけれど、その中身を一口飲んだとたんクスッと笑みを漏らした。

「なに?」

 訝しげな顔をする那岐の前を通り過ぎて千尋は調味料入れに近づくと、そこから砂糖を取り出してスプーンに二杯ほどの砂糖をマグカップの中へ投入した。

「このココア無糖だから、砂糖入れないと。」

「……。」

「でも、有難う、あったかいよ。」

 そう言って千尋はマグカップの中身を再び口に入れた。

 その顔には満面の笑み。

 那岐は「はぁ」と溜め息をついて千尋に背を向けた。

「那岐?」

「僕はここまで、後は風早に傘を持っていって風早にやってもらいなよ。」

「これ以上やってもらいたいことなんてないよ、ありがとね、那岐。」

「……。」

 弾んでいるような千尋の声を背に聞きながら那岐は歩き出した。

 そう、ここから先はいあつの役目。

 自分の出番じゃない。

「那岐?どこ行くの?一緒に風早迎えにいかない?」

 ピクッと体を震わせて足を止めて、那岐はもう一度千尋を振り返った。

 風早を迎えに?

 そんなこと誰がするものか。

「行かない。僕は昼寝の邪魔をされたからね、昼寝の続きをする。ここからは邪魔、しないでよ。」

「もうっ!那岐ったら寝てばっかり!」

 怒声に近い声に那岐は背を向けた。

 冗談じゃない、どうして傘を届けてもらって溶けそうなほど嬉しそうな顔をするあいつと、あいつの役に立てて嬉しそうな千尋の顔をわざわざ雨の中を歩いて見に行かなくちゃならないんだ。

 那岐が心の中でそうつぶやきながらリビングのドアを開けると……

「降られちゃいました。」

 那岐にしてみれば鬱陶しいほどの長身がそこに立っていた。

 髪からは雫がぽたぽたと滴っていて顔には苦笑が浮かんでいる。

 那岐が溜め息をつくのと背後で千尋が駆け出すのとは同時だ。

「お帰りなさい、風早。やっぱりすぐ傘届けに行けばよかった。」

「いえ、持たなかった俺が悪いんですよって千尋も降られたんですか?」

「そうなの。今全部着替えて、那岐がココアいれてくれたところ。」

 千尋が嬉しそうにそう言えば「ほぅ」とでも言いたげな風早の視線が那岐に刺さった。

「なに?」

「いや、なんでも。」

 今度は風早の顔に嬉しそうな笑みが浮かぶ。

 那岐はその笑顔の向こうに無性にいらだつものがあるような気がして顔をしかめた。

「朝あんなに晴れてたのに降るなんて思わなかったよね。」

「そうですね。天気予報は見ておかないとダメですね。」

「那岐はちゃっかり午後サボって帰ってて降られなかったんだって。」

「ダメじゃないですかサボったりしちゃ。」

 姫と従者、二人仲良く並んでいるのを睨みつけて、那岐は深い溜め息をついた。

「それより、あんたも着替えなよ。廊下水浸しになる前にさ。」

「あ、そうでした。」

「風早寒くない?お風呂にしちゃおうか?」

「あ、千尋も降られたならお風呂にしましょうか。ちゃんとあったまった方がいいかもしれない。」

 そう言って風呂場へ向かおうとする風早の前に那岐はすっと一歩を踏み出した。

 この従者は姫を温めるためにこのまま風呂の準備を始めるつもりらしいからだ。

「家中水浸しにする気?僕がやっとく。」

 不機嫌そうにそういう那岐に風早はニコニコと笑みを浮かべてうなずいた。

 那岐にとってはなんだかとっても気に障る笑顔だ。

「有難う、那岐。」

「なっ。」

「じゃぁ、私がココアいれるね。那岐の分もいれてあげる。」

「いらないよ!」

「いいからいいから。」

 何やらご機嫌な千尋はキッチンへ、穏やかにご機嫌な風早は自分の部屋へと姿を消してしまって…

 残された那岐は「ちっ」と本日三度目の舌打ちをしながら風呂場へ向かった。

 自覚のない姫と従者の側にいるのは本当に疲れる。

 そう思いながら、二人のために風呂の準備を始める那岐はそんな自分を嫌っていないことに気付いて、本日四度目の舌打ちを溜め息に変えた。








管理人のひとりごと

那岐は雨に濡れるくらいなら学校で寝そう(爆)
裸を見て動じない忍人さんとは正反対で、透けるブラウスに動揺する那岐を書きたかった(’’)(マテ
一応現代で既に片思いっぽい感じで書いてみました。
もちろんこの時点で千尋ちゃんは全くの無自覚。
風早父さんはたぶん無自覚を演じている(’’)
そしてそんな父さんにイライラしっぱなしの那岐(w
たぶん現代ではそんな感じだったんじゃないかなぁという管理人の妄想でした!







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