『では、後から行きますから、先に行っていて下さい。』
千尋の耳に甦るその声は風早のものだった。
とても綺麗に咲いた桜の花を見つけた千尋が風早を花見に誘ったのが今朝のこと。
もちろん風早はその時点では二つ返事で了解したのだけれど、了解した直後、岩長姫からお呼びがかかってしまった。
いつもなら千尋のお願いを優先する風早だが、どうやら岩長姫の用件が急を要するらしいと聞いてはさすがの風早も困り果ててしまったので、千尋が岩長姫を優先してほしいとお願いした結果、風早は先後から行くと約束して岩長姫のもとへ向かってしまったのだった。
千尋はといえば、自分から言い出したことでもあるから、今更寂しいとか後悔しているとか言うわけにもいかなくて、一人、忍人を護衛に伴って出かけることにした。
本当は一人で出かけて風早を待ちたかったけれど、さすがに一人きりでの外出は認めてもらえなくて、一人しか護衛をつけないのなら忍人がということになったのだ。
風早と同じくらい腕の立つ者でなければ護衛が一人というのは認められないというのが姉の主張で、千尋は渋々その主張を受け入れた。
もちろん、忍人に護衛してもらえば安全は間違いなく確保されている気がするのだけれど、忍人と二人きりというのはそれはそれで千尋に微妙な緊張をもたらした。
何しろ忍人はいつも厳しい表情を崩さない真面目な人で、笑顔で一緒に花見というタイプの人物ではない。
どちらかといえば二人きりでいると緊張する部類の人であることは間違いなかった。
移動の最中も忍人は一言も言葉を発しない。
黙々と歩き続けて満開の桜の木の下までやってきて、千尋は一つため息をついた。
これでやっと目的地にはやってきた。
あとはもう風早をひたすら待つしかない。
「風早は…。」
「はい?」
突然忍人が口を開いたので千尋は驚いて振り返った。
そこには桜の木を見上げながら相変わらず渋い表情をしている忍人が立っていた。
ただ、忍人の顔に浮かぶその渋い表情がいつもよりも少し柔らかく見えたのは花を眺めているからだろうか?
千尋がそんなことを思っているうちに忍人は言葉を続けた。
「風早は君の護衛だ。師君に譲ることはなかったと思うが。」
思いがけない忍人の優しい声音に千尋は一瞬目を見開いてから、その顔に苦笑を浮かべた。
それは確かに忍人の言う通りなのだけれど、千尋としては風早に対して自分を最優先してほしいなんて、そんなわがままはとても言えなかった。
それに、風早にちゃんと仕事をしてもらいたいというのも本心ではある。
それでもこうして風早がいないと忍人が気遣ってくれるほどにいつもとは違う様子になってしまうのだから、千尋としては苦笑するしかなかった。
「いいんです。風早だって他にも仕事があるんだし、後で来てくれるって言ってたので…。」
「そうか。」
穏やかな忍人の言葉にうなずいて、千尋は木の根もとに座った。
ひらひらと舞う花びらを見ているだけでも美しい。
もちろん、隣に大好きな人がいないのは寂しいけれど…
「俺は少し離れていよう。ついでに辺りを見回っておく。」
「はい、有り難うございます。」
自分と二人でいても気づまりするだけだろうと気をきかせて、忍人は千尋の前から歩み去って行った。
この辺りは治安もいいから少しくらい離れていても問題はない。
だから、忍人は千尋に愛しい人を思いながら一人で物思いにふける時を提供したのだった。
そんな忍人の気遣いに感謝して、千尋は大きな桜の幹に背を預けると、一人静かに満開の桜を見つめ続けた。
『千尋。』
千尋は耳に届く優しい声に自然と顔がほころぶのを感じながら、声の主を探して視線を巡らせた。
けれど、声の主の姿は見えなくて、ただ千尋の視界ははらはらと散る薄紅の花弁で満たされている。
千尋はなんだか不安になって、そっと声の主の名を呼んだ。
「風早?」
『千尋。』
再び耳に届く聞き慣れた柔らかな声。
けれど、辺りを見回してみてもその姿は全く見えなくて…
どんなにその姿が見えなくとも声の主である風早が自分の前からいなくなってしまうなんてことは絶対に考えられない千尋は、そっと目を閉じると聞こえてくる声に耳を澄ませた。
『千尋、風邪をひきますよ。』
思いやりに満ちた、それでいて少しだけ心配そうな声に耳を澄ませて、そして千尋はゆっくりと閉じていた目を開いた。
「風早…。」
「はい、おはようございます。」
ゆっくりと開いた千尋の目に映ったのは柔らかく微笑む見慣れた優しい笑顔だった。
空から降ってくるみたいに舞い落ちる薄紅のはなびらを背景にたたずんでいる風早はなんだか絵に描いたみたいに綺麗で、千尋は思わず顔を赤くしながら小さく息を吐いた。
「こんなところで眠っていては風邪をひいてしまいます。まあ、俺が遅くなったのが悪いんですが…。」
困ったように苦笑する風早をじっと見つめながら、千尋はやっと覚醒した意識で現状を理解した。
忍人に見回りをしてもらいながら花を眺めているうちに千尋は眠りに落ちたのだ。
この休みをとるために千尋はここのところずいぶんと仕事を無理してこなしていたから、その疲れも出たのだろう。
忍人が見回っているのならこの辺りは絶対に安全。
しかも一人きりとなれば眠気が襲ってきても無理はなかった。
「眠いなら部屋へ戻って…。」
「大丈夫!風早が来てくれたからもう眠くないから!」
せっかく綺麗に咲き誇る花の下で大好きな人と二人きりだというのにここで昼寝してしまうなんてとんでもない。
そんな千尋の胸の内を悟ったのか、風早は優しい笑顔のまま千尋の隣に座ると頭上の花へと目を向けた。
「綺麗ですね。」
「でしょ、だから風早と二人でゆっくりお花見したくて。」
「すみませんでした、待たせてしまって。」
「大丈夫。忍人さんが辺りを見回ってくれてるから一人でも安心してお花見できてたし。」
「そう、ですね…。」
「風早?」
突然風早の声に陰りが見えて、千尋は慌ててその横顔に目を向けた。
風早がゆっくりと自分の方を向くその様子を小首を傾げながら見つめる。
「忍人が見回っているとそんなに安心、ですか?」
「え…それは、だって、忍人さんは強いし……。」
答えながら千尋は風早の声が何故陰ったのかに気付いた。
そう、風早はどうやら嫉妬しているらしい。
「それって、やきもち?」
「当然です。男なら、自分といる方が心強いと言ってもらいたいものですよ。」
「そんなの……。」
当たり前の事なのにと言おうとして千尋はその言葉を続けることができなかった。
何故なら目の前がいきなり真っ暗になったから。
今まで花の香りを吸い込んでいたその胸に突然、愛しい人の匂いが飛び込んできて、千尋は一瞬で顔を赤くした。
「今回は俺が遅れたのが悪いとわかってはいるんですが…。」
聞こえてきたその声に、そして抱きしめられているその腕の力に千尋は風早の想いを感じて微笑んだ。
ここへ来ることが思っていたよりも遅れたことを、そのせいで忍人と二人きりの時間を作ってしま事をとても後悔してくれている。
そして、今こうして抱きしめている自分という存在をとても大切に思ってくれている。
そう感じて千尋は風早の胸からか少しだけ体を離して顔を上げると、ふわりと微笑んで見せた。
「忍人さんが見回ってくれれば安心なのは安心だけど、でも、風早がいなかったから寂しかった。これからはずっと一緒にお花見してくれる?」
「千尋…もちろんです。いつまででも千尋がもういいと言うまで。」
「じゃあ、夜桜も見ちゃう。」
「わかりました。ただし、今日は少し冷えるので…。」
言うが早いか風早は千尋の小さな体をひょいっと抱き上げるとその膝の上に乗せてしまった。
「こうしていることが条件です。」
「これはちょっと恥ずかしい、かも……。」
「誰も見ていませんし、昔はよくこうしていましたよ。」
「それは子供の頃でしょ!今は子供じゃないから……。」
「もちろん、わかっています。」
むきになる千尋に微笑んだ風早のその笑顔が次第に千尋に近づいて、その視界いっぱいに広がった。
自然と千尋が目を閉じると、唇に温かい感覚が降りてくる。
「子供にはこんなことはしないでしょう?」
唇から温もりが離れて、そっと開けた千尋の目にはニコニコと上機嫌な風早の笑顔が飛び込んできた。
耳に届くのは楽しそうな声。
千尋は顔を赤くしながらもゆっくり小さくうなずいて、そして風早の胸にもたれかかった。
「今日が一番の見ごろでしたね。明日だともうだいぶ散ってしまっているところでした。」
そう言いながら風早の手は優しく千尋の髪を撫でている。
髪を撫でてくれる風早の手の感覚が嬉しくて愛しくて温かくて、千尋は幸せをその顔いっぱいに笑顔にして浮かべた。
「眠いならそのまま眠ってもいいですよ。」
「ダメ、風早とお花見するの楽しみにしてたんだから。」
「はい。」
きゅっと首に抱きついてくる千尋を抱きしめて、風早も今の幸せを噛みしめた。
視界に広がるのは優しい薄紅の降る春の景色。
腕の中にはこの世で一番大切な優しい温もり。
これ以上はない二人の幸福は春の色で淡く美しく彩られた。