
最近、千尋は油断ができない。
何故なら…
少しでもつらいと言えばすぐに休憩時間が設けられ、ちょっと喉が渇いたなどと言うとお茶が用意され…
お腹が空いて音なんて鳴ったものなら、あっという間にお菓子の類が用意されるからだ。
もちろん、そうした準備をするのは千尋のことは目に入れても痛くないのだと周囲の誰が見ても明らかにわかる風早だった。
風早は千尋につけられた専属の護衛であって、更には女王である姉も公認の恋人でもあるから、常に千尋の側にいることは別におかしくはない。
それに何より千尋にとって風早がすぐ側にいてくれるということは嬉しいことに違いはないので、必然的に一日のほとんどの時間を千尋と風早は共有することになった。
そうなると、千尋への気遣いをさせたら右に出る者のない風早のこと、千尋の些細な変化を見逃すはずもなくて、千尋がこうしてほしいと望む前になんでもそろえてしまうのだった。
そしてそれは最近、やりすぎといってもいいくらいにまで発展している、というわけだ。
そんな今日この頃、千尋が一番油断がならないと思っているのが『暑い』の一言だった。
この言葉は意識していなくても暑いとポロッと口から出てしまうのだけれど、もし千尋が暑いなんてこぼそうものなら…
水浴びにするか、衣を変えるか、冷たい飲み水を汲んでこようか、等々……
風早がそれはもう大騒ぎを始めることになりそうだ。
だから、千尋はこの『暑い』の一言を口にしないようにと、細心の注意を払っていた。
「はぁ。」
「千尋?どうかしましたか?」
夕食の後、昼間の暑さが少し和らいで、空に一番星が輝く時間。
千尋は風早と二人、向い合せて座っていた。
食後の一時を恋人同士、二人きりでゆっくりと過ごしていたところだ。
「えっと……。」
思わずため息をついてしまったのは、暑さが和らいでほっとしたから。
でもそれをそのまま告げると、明日は朝から風早がどんな世話を焼くかわからないので、千尋は苦笑したまま少し考え込んだ。
ここはなんて言って切り抜けようか?
「その…せっかく二人でいるんだし、今日は天気もいいし、こんなところに座ってないで、窓辺で星空でも見たいなぁ、とか、考えてたんだけど…。」
「そんなことですか。」
これでよし!と千尋が安堵したのもつかの間、風早はすっと窓辺へその身を移すと、千尋ににっこり微笑んで見せた。
そんな簡単な願いなら今すぐに叶えて見せる。
そう言いたげな風早の笑顔に苦笑しながら、千尋もすぐに窓辺へ歩み寄れば、隣に座ろうとしたその小さな体を風早は流れるような動きで自分の膝の上に座らせてしまった。
「か、風早?」
「昼間はずいぶん暑かったですが、さすがに夜になるとかなり気温も下がってきましたから。」
千尋がゆったりとくつろげるように小さな体を両腕で優しく抱きしめ、風早は幸せそうに微笑んだ。
「ひょっとして暑いですか?」
「ううん。昼間よりはずっと涼しいし、こういうふうにしてくれるのは嬉しいから大丈夫。」
こんな時にまで気遣いを忘れない恋人に千尋は頬をほんのり赤く染めながら答えた。
その答えが風早にとってどれほど幸せをもたらす答えだったか。
千尋の体を優しく抱える風早の顔には満面の笑みが浮かんだ。
漂うような夏の夜風に涼を感じながら千尋はそっと空へと視線を泳がせる。
そこには綺麗に輝く月と、優しく瞬く星があった。
雲一つない星空を千尋がじっと見上げていると、パチパチと音がして、突然、背後から射していた部屋の明かりが消えた。
「あれ…。」
「ああ、油が切れたんですね。つけ直しましょうか?」
「ううん。星を見るには暗い方がいいから。」
「それもそうですね。」
消えてしまった明かりから千尋、そして星空へと風早の視線が流れると、つられるように千尋の視線も空へ向かった。
本当は明かりをつけ直しに風早が離れて行ってしまうのが寂しかった。
だから、千尋は星を見るなら暗い方がいいととっさに思いついたことを言ったのだけれど…
いざ見上げてみれば、背後から射し込む光のなくなった夜空は想像以上に美しかった。
満点の星をしばらく楽しんで、いざ、風早に星座の説明でも頼もうかと振り返ろうとして…
千尋はそこでやっと気付いた。
恋人と二人きり。
ここは暗い部屋の窓辺で、時は夜。
しかも二人はぴったりと言ってもいいほど密着した状態で座っている。
これはどう考えても、ものすごく艶っぽい空気が漂っている場面だ。
そう意識し始めるとなんだか緊張してしまって、千尋はあっという間に顔を赤くしながら間近にある風早の顔へとゆっくり視線を移した。
その目に映ったのは…
保護者全開の、春の太陽のように穏やかで温かい、幸せいっぱいで人畜無害な、満面の笑みだった。
もちろん、そんな風早の笑顔が嫌いなわけじゃない。
どちらかといえばとても安心する大好きな顔ではあるけれど…
千尋は思わずため息をついてしまった。
なんといっても今の風早のその顔は『恋人』よりも『お父さん』に限りなく近かったから。
「千尋?どうかしましたか?」
「どうもしなさすぎるのが問題っていうか…。」
「はい?」
「風早のそういう優しいところ、大好きだけど……私はもう恋人だし……。」
不満そうにぼそぼそと言う千尋の顔はけれど、月明かりに照らされてほんのり赤く染まってもいて…
風早はなるほどと千尋の言いたいことを察して苦笑した。
「けっこうこれでもやせ我慢をしてるんですが…。」
「え?何が?」
「俺が、です。」
「?」
「見えませんか?」
「え!風早暑かったの?!」
何を思ったか慌てて離れようとする千尋を優しく、けれど力強く抱きしめて、風早は苦笑を深くした。
どうもしないのが問題だと言ったのは千尋の方なのに…
「暑いなんて言ってませんよ。千尋は俺にとってとても大切な人なので。」
「そ、それはよく知ってる…。」
「嫌がることはしないようにとか、なるべく俺のことを好きになってくれるようにとか、色々考えて我慢とか努力とかしているつもりなんです、これでも。」
「うん、いっぱい色々してくれてるってちゃんとわかって……あれ…。」
なんでそんな話になってるんだろう?と疑問に思って、そして千尋は頭の中でこれまでの会話を一通り思い起こしてみた。
たどり着いたのは風早の我慢の内容。
千尋はポッと顔を赤くして間近にある風早の苦笑を見つめた。
「もう少しだけ恋人らしく振る舞っても千尋は俺を嫌わないでいてくれると思ってもいいのかな?」
自分を見つめる視線にも、耳に届く穏やかなその声にもいつになく艶を感じて、千尋は言葉を失った。
本当は「もちろん!」と叫びたいのに、なんだか緊張して、顔が上気して声が出ない。
だから、千尋はただ激しく首を縦にコクコクと振って見せた。
すると、今まで苦笑していた風早はパッとその表情を変えて、嬉しそうな笑みを満面に浮かべると、千尋がその笑顔に見惚れている間に優しく口づけた。
いつもはかすめるみたいに軽く触れるだけですぐに唇から離れていく温もりが、今は離れる気配がなくて、千尋はうっとり目を閉じた。
そうしていると、唇に感じる熱が今回ばかりは離れる気配がなくて…
口づけがどんどん深くなっていくのを感じて、思わず千尋が身を引くと、それを悟ったように風早の熱が千尋から離れた。
「いや、でしたか?」
「そ、そんなことない!んだけど……その…ちょっと驚いたというか、緊張したというか…。」
「すみません、気をつけます。」
「それはいいの!気をつけなくてもいいから!」
「そう、なんですか?」
「うん…だって、風早っていつも、なんていうか…優しくて穏やかで頼りになって、お兄さんっていうかお父さんっていうかそういう空気で…それはそれで安心っていうか幸せなんだけど…。」
「それは光栄です。」
「でも、こんな時くらいは恋人らしくしてほしいっていうか……い、いつも恋人らしくしててもそれもそれでいいっていうか……。」
これだけ言うのが精一杯とばかりに顔を真っ赤にする千尋に風早は一瞬目を丸くして、そして次の瞬間、嬉しそうに微笑んだ。
「千尋がそんなふうに思ってくれているなら、俺もこれからは恋人らしい空気になるように努力します。」
そう言った風早の目は早速艶やかに月の光を反射していて、千尋はこくこくとうなずくことしかできなかった。
恋人らしくと言ったのは千尋の方だったのに、一度意識してしまうと自分を優しく囲ってくれている風早の腕さえも熱く感じて…
突然、二人の間に漂い始めた艶めいた空気に千尋が顔を赤くしているうちに、風早はもう一度恋人の唇に口づけを贈った。
今度は優しく、けれど、恋人として愛しいという想いの全てを乗せて。
管理人のひとりごと
二人きりの夜でもニコニコしながら千尋をだっこしていられる!それが風早!
と、管理人は思っているので(’’)
それはそれで恋人としては寂しいわよねぇっていうお話です。
人畜無害な笑顔の風早大好きですが、そういう人がいきなり迫ってくれるとそれはそれでステキです!
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