
初夏の陽射しがどんどん強くなってきた午後。
千尋は窓辺に立って深い溜め息をついた。
エアコンなどという便利なものがないこの世界では、夏の暑さは逃亡することがかなわない強敵だ。
特に年頃の乙女である千尋にとって汗だくになる夏の陽射しは迷惑極まりない。
もちろんそれが作物の出来を左右するとわかっているだけに、冷夏であってほしいとは思わないけれど…
それでも、暑い日差しで汗を大量にかけば、大好きな人のそばに近付くことさえためらわれて、千尋の口からは溜め息ばかりがこぼれた。
「千尋?どうかしましたか?」
「ううん、暑くなってきたなぁって思っただけ。」
後ろからかけられた恋人の声に千尋は振り返って苦笑した。
同じ部屋にいる恋人、風早はというと涼しげな微笑を浮かべて余裕の様子だ。
「ああ、ずいぶんと陽射しが強くなってきましたからね。」
そんなことをつぶやきながら千尋の隣に風早が立つと、反射的に千尋は風早と距離をとってしまった。
恋人に汗臭いとか思われるのだけは避けたいのが乙女心というものだ。
ところが、あからさまに自分を避けた千尋を見て、風早がその微笑を哀しげに翳らせた。
「千尋、俺は何か、千尋に嫌われるようなことをしましたか?」
「へ?」
「今、嫌そうに離れたので…。」
「あああああ!違うの!これは違うの!その…なんていうか……汗をいっぱいかいちゃって、それで…。」
一瞬キョトンとした風早は、顔を赤くしてうつむく千尋をじっと見つめてすぐにいつもの柔らかな微笑を取り戻した。
「確かに暑いですね。冷たい水でも持ってこようかと思ってましたが……そうですね、午後からは予定もありませんし、泉に水浴びにでも行きますか?」
「ほんと?!風早が連れてってくれるの?」
「はい。」
「行く!すぐ行く!」
千尋はそれこそ飛び上がらんばかりに喜んだ。
毎日のように風呂に入る習慣がないこの世界では、夏の水浴びは学校のプールの授業よりも貴重なのだ。
しかも風早と一緒に泉まで散歩も兼ねることができる。
嬉しそうに千尋の手をとる風早に連れられて、千尋は晴れた夏空の下へと足を踏み出した。
まだ初夏だとばかり思っていたその陽射しはすっかり強くなっていて、二人は森に入るまで目を細めて歩いたほどだった。
それでも森に入れば木陰は心地よくて、木漏れ日の下を二人で歩くのは本当に幸せだ。
強い陽射しの下を歩いて汗をかいても、泉で水浴びができると思えば気にならない。
二人は他愛ない話をしながらゆっくり歩いて泉までやってきた。
「うわぁ、きれい!」
泉に到着した千尋はすぐに歓声をあげた。
というのも、夏の陽射しを水面で反射している小さな泉の輝きはまるで宝石のようだったからだ。
千尋が泉を覗き込めば、水は綺麗に透き通っていた。
「千尋、俺はあの木の向こう側で見張りに立ちますから、安心してゆっくり水浴びしてください。」
風早は少し離れた大きな木を指差してそう言った。
言われてみて初めて千尋は風早と一緒に水浴びをするわけではないことに気付いて、そして言葉に詰まった。
一緒に水浴びできたら楽しいだろうけれど、そんなことできるわけもない。
風早が木の向こうで見張りをすると言ってくれたのも、自分の裸を見るようなことはしないと暗に宣言してくれているからだ。
「じゃあ、俺はあっちに行ってますね。何かあったら大声で呼んで下さい。」
「あ、うん、有り難う。」
千尋が少しの寂しさと戦っている間に風早は笑顔を残して歩み去った。
泉のほとりからでも見える大きな木の向こう側に立ち、その幹に風早が背を預けるのを見届けてから千尋はゆっくり服を脱いだ。
そういえば忍人さんに武器は手放すなと怒られたことがあったっけ。
などと思い出しながら服を脱いで素早く泉に入ると、程よく冷たい泉の水があっという間に粘つく汗を流してくれた。
冷たすぎない泉の水はとても心地よくて、いつまでもつかっていたい気がするけれど、一人で黙って入っているのはやっぱりつまらない。
千尋は振り返って木の端から少しだけ見える風早の背を見つめた。
一緒に入るのは無理でも楽しくおしゃべりをしながら、くらいはできないだろうか?
そう考えてはみたものの、風早との距離はけっこう離れていて、話をしようとすれば大声を出さなくては聞こえないだろう。
そんなおしゃべりもどうだろう。
千尋は泉の水の冷たさを堪能しながらも溜め息をついてしまった。
これは汗を流したら早くあがって、風早と二人でどこかへ散歩にでも行こう。
まだ陽射しが強かったら木陰で涼みながら並んで座っているだけだってかまわない。
そんなことを考え始めるともう風早の声が無性に聞きたくなってしまって、千尋は水音を立てていきなり立ち上がった。
ところが…
「きゃっ。」
足下に大きな石があったことに気づかずに一歩を踏み出してしまったものだから、千尋は石を踏み外して水の中に尻餅をついてしまった。
もちろん辺りには千尋の短い悲鳴と共に激しい水音が響き渡る。
水があったおかげで千尋は大きな怪我などせずに済んだけれど、問題はもっと別のところにあった。
「千尋っ!」
見張りに立っていた風早が剣に手をかけて駆け寄ってきたのだ。
「どうしたんですか?!」
辺りを見回して警戒しながら風早に問われて、千尋は水の中に顎までつかると顔を真っ赤に染めて上目遣いに風早を見上げた。
「あの…ちょっとつまずいただけ、なんだけど…。」
「つまずいた…誰かいたとか、そういうことではないんですか?」
「うん、騒いじゃってごめんね。」
「いえ、何もないならいいんです。つまずいたって、足とか大丈夫ですか?」
「えっと…ちょっと痛いけど…。」
「それは治療を…。」
と手を伸ばそうとして、風早はぴたりと動きを止めた。
今手を伸ばして千尋を水から引き上げると、そこには一糸まとわぬ裸の千尋が現れることに気付いたからだ。
完全にフリーズした風早に千尋は上目遣いで苦笑した。
「あのね、上がって服着ちゃうから…。」
「はい!」
風早はいつもの穏やかさからは想像もできないような大声でそう返事をすると、くるりと千尋に背を向けた。
背を向けただけで立ち去ろうとしないのは、先ほどの千尋の悲鳴を聞いた時の恐怖が残っていたからだ。
千尋に万一のことがあったら。
そう考えると千尋のそばを離れることができなかった。
千尋は確かに無事なのだと、そう心の中で風早が確認しているうちに背後で水の音がして、次に衣擦れが聞こえ、そして最後に千尋の愛らしい声が聞こえた。
「風早、もういいよ。」
許可をもらって風早が振り返れば、草の上に座って右足首をさすっている千尋の姿が見えた。
そっと隣に座って足の様子を見ると、少し足首が腫れているように見える。
「痛いですか?」
「ん〜、ちょっと、ね。」
千尋が申し訳なさそうな顔で足をさすっていると、すっと風早の手が伸びて、千尋の体がふわりと浮き上がった。
「風早?」
「水浴びしましたから、もういいですよね。」
「へ、えっと…。」
「そんな足で歩いたらひどく腫れてしまいますから、今日は俺が抱えて帰ります。」
きっぱりと言い放たれて、千尋は抵抗できずにうつむいた。
怪我をしたのは自分の不注意のせいだし、風早の言う通り、この足で無理に歩けばきっと悪化してもっとひどいことになってしまうだろう。
だから、風早の宣言に抵抗することはできない。
けれど、千尋にはなんだかこの一時がもったいない気がして…
「ねえ、風早。」
「はい?足、痛いですか?」
「ううん、そうじゃなくて…あのね、お願いがあるの。」
小さな声でつぶやくように言う千尋に笑顔を見せて、風早は足を止めた。
千尋のお願いならなんだって聞いてしまうのが風早だ。
それどころか、お願いされることを心底嬉しいと思っているのだから、風早が微笑むのは当然のことだった。
「なんですか?痛めた足に負担がかからないことならなんでも。」
「うん、あのね、もう少しだけ木陰で二人で休んでいかない?せっかく天気がいいし、風も気持ちいいし、部屋に戻ったらまた汗かきそうだし…。」
つまり部屋に戻ったらまた汗が気になって側でゆっくりしていられなくなる。
だからここで一緒にいたいのだと言っているのだと気付いて、風早の笑みが深くなった。
別に汗まみれだろうが油まみれだろうが風早は一向にかまわないのだけれど、風早に千尋が嫌がることをすることなどできるはずもない。
つまり、部屋に戻れば風早はまた千尋と一定の距離を置かされることになるのだ。
ならばと風早は近くの大木の根元に千尋を下ろした。
「そうですね。部屋に戻ったらまた暑いですし、日が暮れるまでここで休んで行きましょうか。」
「うん!」
千尋は満面の笑みでうなずいて風早の服の袖を引いた。
大好きな恋人が自分の隣に座ってくれるように、そしてできたら肩なんか抱いてくれると最高に嬉しい。
そんな気持ちをこめて長身の恋人を見上げれば、風早は千尋が何も言わなくても全てわかっているというように隣に座った。
どんなに気温が高くても隣に寄り添う温もりは幸せで、千尋の顔に笑みが浮かぶ。
すると、そんな千尋の方を風早が優しく抱き寄せた。
何も言わなくてもそんなふうに優しくしてもらえることが嬉しくて、千尋はそっと風早の肩に頬を寄せた。
管理人のひとりごと
よくもまあ忍人さんはあの状況で平気な顔してくれましたなと(笑)
風早父さんの場合はフリーズしますよと(w
せっかく気を使って見張りをしていたのに、慌てて振り返って台無し(’’)
かわいい千尋の危機となれば風早父さんもちっとは慌てます。
そりゃもう怪我なんかしようものなら…って話です。
暑い日に水浴び、これは現代でも最高!
でも、風早父さんに見張っててもらえて、帰りはお姫様抱っこならなお最高!(マテ
ブラウザを閉じてお戻りください