柊は恋人でもあり、主でもある女性に呼び出されてその自室へと向かって歩いている。
窓の少ない廊下はやたらと空気がこもっていて、驚くほどに蒸し暑かった。
そんな中を柊は顔色一つ変えずに颯爽と歩いていた。
ここのところ、恋人でもあり、また主でもある大切な女性、千尋はとても忙しい。
その間、柊もその千尋の力になるべく調べものだの決裁だのに追われて忙しくしていた。
だから、ここ数日、ほとんど千尋と顔を合わせることさえできていない。
このまま会えなくなるようなことがあってもそれはそれで運命と言わなくてはならないのかもしれない。
そんなことさえ考え始めていたところだったから、千尋からの呼び出しに柊はらしくもなく浮かれていた。
柊がこれまで知っていた未来とは違う未来がやってくる。
それは柊にとって喜ばしいことではあったが、同時に不安を伴う状況でもあった。
千尋と二度と会えなくなるという可能性もあるのだと考えてしまうのはきっとそのせいだろう。
そして柊にはもう見ることのできないその未来の可能性を肯定するのも否定できるのも千尋だけ。
そうなればもう、柊は乞われるがまま、千尋のもとを訪ねることしかできなかった。
昼間でも薄暗い廊下をいつもよりも早い歩調で歩き、目指す扉の前に立つ。
扉のむこうに在るだろう笑顔を想像して頬を緩めて、柊は口を開いた。
「我が君、柊、参りました。」
そう声をかけてからそっと重たい扉を開けると、窓辺に立っていた千尋の後ろ姿がすぐに柊の方へと振り返り、一瞬にしてその顔に花の笑顔を浮かべて見せた。
「柊!」
柊がとりあえずの挨拶をしようと再び口を開いた刹那、千尋は愛しい人の名を呼んで、そしてその胸に飛び込んだ。
窓から扉まで数歩では足りないほどの距離がある。
その距離をあっという間に駆け抜けて、千尋はギュッと柊に抱きついた。
「我が君?どうかなさいましたか?」
「だって、ずっと会えなかったから…。」
拗ねたようにそう言って千尋が視線を上げると、柊が隻眼を大きく見開いているのが目に入った。
「柊は会いたいって思ってくれなかったの?」
「いえ、お会いしたいと思っておりました…が……。」
「が?」
「このようにして頂けるとは思っておりませんでしたので…。」
「いやだった?」
「まさか。」
普段は決して見せない驚愕の表情をあっという間に消し去った柊は、いつも通りの余裕の笑みを取り戻して千尋を優しく抱きしめた。
「我が君にこのように望んで頂くことを私が嫌がるなど、この世が滅びてもありえません。」
「よかった。」
自分の腕の中で微笑む千尋の愛らしさに口元をほころばせながら、柊は千尋を抱いていた腕にそっと力を込めた。
すると、そのまますり寄ってくれるものと思ていた千尋は急に柊の腕の中からすり抜けて、にっこり微笑んだ。
「今日は凄く天気がいいの。」
「はぁ…。」
千尋の意図がわからずに柊は小首を傾げるばかりだ。
千尋はというと、そんな柊の腕をつかんで、あっという間に窓辺へと連行した。
窓の外は雲一つない青空と夏の陽に照らされた美しい山が遠くに見えた。
「ね、綺麗でしょ。」
「はい。」
「この景色を柊と一緒に見たいなって思って呼んじゃったの。その…最近、会えなかったから会いたかったし…迷惑だった?」
「まさか。」
「柊と一緒につかみとった世界だから、綺麗な景色はやっぱり柊と一緒に見たいなと思ったの。」
「我が君…。」
少し照れたように笑って寄り添ってくる千尋の肩を抱いて、柊もまたその顔に穏やかな笑みを浮かべた。
こんなふうにいつも自分のことを想ってくれる大切な人を幸福にすることができるなら、命でも魂でも、彼女の望む全てを捧げよう。
柊がそう胸の内で誓いを新たにしていると、何故か千尋の体がそっと柊から離された。
突然の出来事に柊が驚いて千尋の様子をうかがうと、千尋は心配そうに柊の顔を見上げている。
「我が君?」
「あの…私が甘えたくなったから、くっついちゃって…その……ごめんなさい。」
「は?何を謝罪しておいでなのでしょう?」
「暑かったかな、と、思って。」
「……。」
暑いか暑くないかと言われればそれはもちろん暑い。
物理的に暑い。
これはもう動かしようのない自然の状態だ。
が、たとえここが地獄の業火の中であったとしても柊にとって千尋のぬくもりは決して暑いといって手放すようなものではない。
そう説明して抱き寄せようとして、そこで柊は思いとどまった。
自分が暑いということは、千尋も暑いに違いないのだ。
つまりは、ここで柊が抱き寄せると間違いなく千尋が暑い思いをするということになる。
それに気づいて、柊はふっと溜め息をつくと苦笑を浮かべて千尋の手をとった。
「柊?」
「せめて御手だけでもこうして触れさせては頂けないでしょうか?」
「え?それは別にいいけど……。」
「有り難うございます。」
抱きしめることができないのなら、せめて手をと望んだのは柊。
そして許可を与えた千尋はと言えば、何故手を望まれたのかがわからずに、頬を赤く染めながら考え込んでいた。
そうして柊が大事そうに千尋の手を優しく握ること数十秒。
はっと何かに気付いたように千尋が口を開いた。
「もしかして柊、私が暑がってるって気を使ってくれた?」
「気を使ったというほどのことではございません。現にこうして、我が君の手を煩わせてしまっております。」
「そんなことない!私も嬉しいし……じゃなくて!私は柊が暑いかなぁと思っただけで…。」
「私は、暑さなど。我が君に触れて頂けるのでしたら、どのような時でも幸福です。」
「本当?」
「はい。」
低い囁くほどの声で柊が答えれば、千尋の顔にぱっと光が射したように笑みが浮かんだ。
そして次の瞬間、柊はその手の中から千尋の手を失い、そして腕の中に千尋の小さな体を得ていた。
扉の前にいた時と同じように千尋がギュッと抱きついてくることに一瞬驚いて、そしてすぐにその顔に笑みを浮かべて、柊は千尋を優しく抱き返した。
「少しだけこうしててもいい?」
「少しなどとおっしゃって、我が君は私を苛むのがお上手です。」
「苛むとか……柊はまたそういうことを言って私をからかうんだから。」
「からかってなどおりません。事実を申し上げただけです。」
「それじゃ、もう晩御飯までこのまま柊を自由にしてあげない。」
「我が君にこのように縛めて頂けるのでしたら、いつなりとも喜んで。」
「もぅ、柊はまた…。」
いつもの調子を取り戻した柊を千尋は少しだけ拗ねた目で見上げた。
その表情さえ柊にとってはもうどうしていいのかわからないほどに愛しくて…
自分が手に入れた幸福に改めて感謝せずにはいられない。
柊を今まで縛めていたものはあらかじめ定められていた希望のない未来。
けれど、今、柊を縛めているのはその未来を否定して新たな未来を与えてくれた愛しい人。
この縛めが永遠に解けることのないように、柊はそっと千尋に口づけを贈った。
優しい口づけはけれど、かすかに熱を帯びて、唇を離してみれば千尋の顔は真っ赤に染まっていた。
それこそ、このまま抱きしめていたらのぼせて倒れてしまいはしないかと柊が心配になるほどの赤さだ。
「我が君、大丈夫ですか?お顔の色が…。」
「て、照れてるだけだから!暑いのは大丈夫だから……その……。」
『その』の先をどうしても口にできない千尋が腕の中でもじもじしているのを柊は微笑みながら見守った。
もちろん、柊には腕の中の恋人が『その』の後に何を言いたいのか、だいたいの予想はできている。
予想はできているが、それを口にするつもりはない。
たまには恋人の方からそれをねだってほしいから。
「その……あの……。」
「なんでしょう?」
「柊、わかっててしてくれないんでしょう?」
「なんのことやら。」
「もぅ!…………さっきのもう一回、して、ほしい…。」
「そのようなことでしたら、いつでも、何度でも。」
かすれるほどの囁き声でそうつぶやいて、柊は再び千尋に口づけた。
今度は少し長く、少しだけ深く。
それまで優しいぬくもりだとばかり思っていた恋人の体温が熱いと感じるほどに上がった気がして…
それでも柊はその熱が愛しくて、唇を離すとすぐに千尋を抱く腕に力を込めた。