
「布都彦。」
突然名前を呼ばれた布都彦は槍を手に慌てて声のした方を振り向いた。
何故なら聞こえてきたその声が布都彦がこの世で最も大切に想う人のものだったから。
布都彦の視線がすぐに声の主を捕らえた。
鍛錬をしていた布都彦から少し離れたところでその人は楽しそうに手を振っていた。
愛らしくも凛々しいその顔には輝くような笑みが浮かんでいる。
布都彦は槍を携えたまま慌ててその人のもとへと駆け寄った。
木陰の下で微笑んでいたのはもちろん、布都彦の主でもあり想い人でもある千尋だ。
「陛下、このようなところへ…。」
「ちょっと布都彦にお願いがあって。」
「お、お願いなどと!お呼び頂ければすぐに馳せ参じました。お命じ頂ければどのようなことでも…。」
「ううん、命令じゃなくてお願いがあって、それにここに来た方が早かったから。」
相変わらずの布都彦の態度に苦笑する千尋に、布都彦が小首を傾げた。
「あのね、これからちょっと視察に回りたいんだけど、その護衛をね、布都彦にお願いしたいの。時間ある?」
「もちろんです!是非、お供させて下さい。」
槍を片手にうやうやしく礼をする布都彦に苦笑を深くしながらも、千尋はほっと安堵の溜め息をついた。
これでやっと二人きりで歩くことができるから。
布都彦はとても真面目で、千尋のことを大切に思っているから、周囲に悪い噂をたてられてはいけないとなかなか二人きりで甘い時間を過ごしてはくれない。
だから、視察なら一人で行くことはできないからと理由をつけて千尋は布都彦と二人きりで歩く時間を作り出したというわけだ。
千尋はこの中つ国の女王でもあるからそうそう一人きりになる時間をとることはできない。
夜眠る前に忍んで会いに来てくれるなんてことが布都彦相手に望めるわけもなくて、こうして仕事を利用するしか方法がなかった。
結局、視察は本当にしなくてはならないから純粋に二人きりのデートというわけにはいかないけれど、それでもちょっとした一時を楽しむくらいはできるはず。
そう思って千尋は布都彦を伴って歩き出した。
「しかし、陛下の視察の護衛が私一人というのはいささか心もとなく…。」
「そ、そんなことないよ!布都彦は毎日とっても頑張って鍛錬しているし、頼りにしてるんだから。」
にっこり微笑む千尋に一瞬見惚れて、顔を赤くした布都彦は慌てて千尋から視線を引き剥がした。
不躾にじろじろと見つめるのは無礼だし、そんなところを周囲の誰が見咎めるとも限らない。
そうは思っていても、戦乱を終結に導き、まだまだ問題が山積しているとはいっても以前よりは遙かに平和になった今は千尋の笑顔もとても明るい。
華やいだその表情は布都彦の目を奪うだけの力を十分に持っていた。
「こんなふうに静かに歩ける日がくるなんて思わなかったね、あの頃は。」
「はい、戦いの連続でしたので。」
「でも、ちゃんと戦いは終わった。これからはみんなが幸せになれるように頑張らないと。」
「陛下…。」
「そのみんなの中には布都彦も入ってるんだから。」
「は?」
思わず布都彦は歩みを止めた。
いきなりの千尋の言葉に目を見開く。
「布都彦は昔色々あったし、今も凄く色々気を使ってくれていて、真面目だし真剣だしそこは凄くステキなところだと思うの。でも、私は布都彦にも幸せになってほしい、そう思ってる。」
「陛下……私は……陛下のお気持ち、有り難く存じます。ですが、私は陛下にこそ幸せになって頂きたいと思います。陛下はあの戦いの中、この中つ国のため、いえ、中つ国のためだけではありません、この世に生きる全ての者のためにつらい思いをたくさんなさいました。これからは陛下にも幸せになっていただかなくては…。」
「ん〜、それはけっこう簡単なこと、なんだけど……。」
「そうなのですか?!」
布都彦の声が思わずはずんだ。
簡単にこの愛しい人が幸せになれる。
それはなんと素晴らしいことだろう。
この人の幸せのためならばなんでもしようと思っていたのだ。
「うん、けっこう簡単、布都彦が協力してくれれば。」
「私が、ですか?」
たった今、この人の幸せのためならどんなことでもする、そう思っていた布都彦は思わずきょとんとしてしまった。
簡単なことを自分がすることで愛しい人が幸せになるといってくれている。
もうこれは今すぐにでもその簡単なことをしなくては。
一瞬にして気合を入れた布都彦は、一歩千尋ににじり寄った。
「どうぞ!何でもおっしゃって下さい!」
瞳をキラキラと輝かせてまっすぐに自分を見つめる布都彦を見て、千尋は嬉しそうに微笑んだ。
そして…
「有難う。じゃぁ、まず、手をつないで。」
「は?」
「だから、手をつないで歩いてほしいの。」
「……。」
あっという間に布都彦は凍りついた。
一瞬頭が真っ白になった布都彦はぼーっと千尋を見つめたまましばらく微動だにしなかった。
そしてしばらくして、手をつなぐ、その言葉を思い起こしてのろのろと布都彦の視線は千尋の手に流れた。
白くてほっそりとしたしなやかなその手はとても女性らしくて美しい。
その手を自分の手で握ると想像しただけで布都彦は顔を真っ赤に染め上げた。
「そ、そ、そのようなことは…。」
「ダメ?」
そう言って小首を傾げる千尋はもうとんでもなく愛らしくて、布都彦はあわあわと慌てた。
「そ、その……。」
「布都彦が嫌なら無理にとは言わないから…。」
そう言って千尋は布都彦の目の前でみるみるうちにしょげていき……
布都彦はそれこそパニック寸前の状態になっていきなり千尋の手をとった。
「布都彦…。」
「こ、これで宜しいでしょうか…。」
「うん!有難う!」
小さな千尋の手が布都彦の手をキュッと握った。
その顔にはとても嬉しそうな笑みが浮かんでいる。
それを見るとこれでよかったのだろうとは思う布都彦だが、どうしても周囲の視線は気になった。
今は人気のない道を歩いているからいいけれど、人里に入ればそうはいかない。
辺りをキョロキョロと見回す布都彦に千尋が思わず苦笑した。
「大丈夫、私が布都彦を好きだっていうことはみんなが知ってることだし。」
「は……。」
あっさり好きだとあまりにも嬉しい言葉を紡がれて、また布都彦は凍りついた。
戦のさなかなら布都彦も勢いに任せてそんな話をしたことがある気がするが、こんなにおちついてサラリと言われてしまうのは意外で…
これは自分も何か言わなくてはと布都彦が口をパクパクさせ始めたその時、ポツリと水滴が落ちてきた。
「あ、雨…。」
千尋の言葉に布都彦も空を見上げてみれば、いつの間にか頭上には厚い雲が垂れ込めていて辺りも薄暗くなっていた。
ぽつりぽつりと空から落ちてくる雨粒の量が次第に多くなっていくことは間違いなくて、布都彦は千尋の手を引いて走り出した。
「布都彦?」
「この時期の雨はすぐに強くなります。人里まではまだ距離がありますので、近くの木の下で雨宿りを致しましょう。」
千尋の返事を待たずに布都彦は走り続けた。
いくらもう冷たくは無いとはいえ、愛しい人を雨でずぶ濡れにするわけにはいかない。
二人が大きな木の下に飛び込むのと同時に雨足は急に強くなって、千尋はホッと安堵の溜め息をついた。
「布都彦の言ったとおり凄い雨。」
「この時期は雨が強く降りますから。」
激しい雨から愛しい人を守れたと布都彦が安堵の笑みを浮かべながら隣に立つその人を見てみれば、千尋はなんだかとても幸せそうに微笑んでいた。
こんなふうに雨に降られて視察どころではなくなったのにと布都彦は小首を傾げる。
「陛下?」
「なに?」
「いえ…もう本日は視察は不可能かと思いますが…。」
「うん、そうだね。」
「その……陛下は雨がお好きなのですか?」
「へ…。」
突然の問いに今度は千尋が目を丸くした。
不思議そうにしている布都彦から更に激しくなる雨に目をやって、それから布都彦に視線を戻して…
そして千尋はにっこり微笑んだ。
「好きかも、おかげでこんなふうに布都彦と二人でいられるし。」
「へ、陛下!」
そんなことのためにこの大切な人が雨に濡れてはと思うと布都彦の想いは複雑だ。
でも、二人きりでいられると喜んでもらえることは布都彦にとっても嬉しいことで…
布都彦は千尋の手を握っているその手に力を込めるとその手をくいっと自分の方へ引いた。
するとバランスを崩した千尋が布都彦の腕の中へと倒れこむ。
布都彦は腕の中の小さな体を優しく抱きしめた。
「布都彦?」
「その…か、体が冷えてはいけませんので…。」
「有難う……。」
辺りは強い雨で煙っていてここでこうしている二人を誰かが目に止めることはありえないから。
強い雨は音をたてて地面をたたきつけていて、会話だって周囲に漏れることはない。
だから、布都彦は自分と二人きりになることを喜んでくれたその人を抱きしめた。
今だけはこの人の幸せのために尽くすことが許される気がしたから。
そして千尋は、そんな布都彦の想いを受けてうっとりと布都彦の胸に甘えた。
突然の雨はハプニングだったけれど、こんなふうに布都彦と二人でいられるなら雨も大歓迎だ。
久々に二人きりでいられる時間は雨に包まれてしっとりと優しく守られていた。
管理人のひとりごと
頑張れ!布都彦!っていう感じが伝わるといいな(’’)(マテ
布都彦の場合、相手が自然現象であっても千尋ちゃんを守ってあげたいのです!
で、雨を帳として利用してます(’’)
そうね、体冷やしちゃいけないからね(w
と近所のオバサンみたいな心境になる管理人…
こんなふうに優しくしてくれる素敵な人がいてくれれば雨も嫌じゃないのにねぇ(’’)
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