
アシュヴィンは額に汗さえ浮かべ、真剣な顔で茶器に向かっていた。
傍らには苦笑を浮かべたリブが今にも手を出しそうといわんばかりに両手をわなわなさせながら立っている。
何故なら今、茶器を手にしてお茶を淹れようとしているのがアシュヴィンだからだ。
今まで他人の淹れた茶の味に文句を言ったことはあっても自分の手で茶を淹れるなどということをしたことがないアシュヴィンの手元は、リブでなくても見ている者全てがハラハラするほど心もとない。
剣を握れば周囲の誰もが恐怖する勇ましい皇であるアシュヴィンも茶器を前にすると子供同然だ。
「やっ、陛下!湯を注いでからは少し時を置きませんと…。」
「待つのか?この状態で。」
「はい。湯を注いでから時をかけて蒸すと茶の香りが良くなります。」
「面倒だな…。」
「慌てて注いでしまうと味も香りも浅くなりますので。あと、茶葉によっては煮立った湯ではなく、少々さましたものの方が…。」
そこまでウキウキと説明してリブはハッと我に返った。
茶器から自分へと移されたアシュヴィンの視線が険しくなっていることに気付いたからだ。
どうやら戦術についてや武術についての話は何時間でもしていられるアシュヴィンも、茶の淹れ方の細かな話を真剣に聞いて脳内にインプットする力はないらしい。
「や、その……今回は煮立った湯でかまいませんので…。」
リブの言葉にフッとつまらなそうに小さく息を吐いたアシュヴィンはその目を茶器へと戻した。
何故、今こうしてアシュヴィンがリブに茶の淹れ方を教わるなどという事態に陥っているのか?
もちろんこれには理由がある。
事の起こりは今朝のことだった。
アシュヴィンは大切な妃が春に咲く花の中でも散り際の美しい桜という花が咲くのをやたらと楽しみにしているということを知って、花見の計画を立てた。
桜の満開を狙って一日休みを取り、妃と二人でゆっくり茶を飲みながら花を見て過ごす。
それがアシュヴィンの計画だった。
とにかく忙しいアシュヴィンはなかなか妃である千尋とゆっくりする時間がとれない。
だからこそ、こんな時くらいは一日ゆっくり休みにして、愛しい妻の喜ぶ顔を眺めて過ごそうと考えたのだ。
今日は朝から晴天で、花見にはもってこいの気候だった。
だから、アシュヴィンはあらかじめ休みを取らせてあった千尋を伴って大きな桜の木の下へと繰り出したのだが…
満開の花の下に敷物を敷いて茶器を広げたまでは良かった。
茶菓子にも文句はなかった。
第一、千尋はこれ以上ないほど幸せそうな顔をしていたのだ。
ところが、リブが茶を淹れて事態は急変した。
千尋がやたらとリブの淹れた茶を褒めまくり、そこから延々と茶の話になり、そしてアシュヴィンは一人取り残されたというわけだ。
もちろん、その状態でアシュヴィンが黙っていられるわけがない。
花よりも茶を楽しみたいのならリブと二人で花見をするがいい、などと口走ってしまったものだから千尋の怒りに火がついた。
更にアシュヴィンが茶をうまく淹れられる男が夫の方がさぞかし奥方殿は幸せだったのだろう、などと勢いに任せて言い放つと千尋の怒りには手が付けられなくなった。
あっという間に怒りに目を潤ませて自分の部屋へ閉じこもってしまった千尋は扉のこちら側からどんな謝罪の言葉を投げかけても全く応じてはくれない。
こうなってはもうアシュヴィンが頼るのはリブしかいなかった。
リブもさすがに今回ばかりは時間が必要だと感じてはいたものの、せっかくの休みに妻の側にいられないむなしさに悶える主を見るに見かねて、アシュヴィンに千尋に茶を淹れてはどうかと進言した。
何しろ事の発端が茶なのだから、ここはリブ以上においしいお茶を千尋に飲ませてやれば解決するのでは?というのがリブの考えだった。
アシュヴィンは他に良い案も浮かばないからとリブの意見を採用して現在に至る。
「や、これはなかなか…。」
アシュヴィンが額に汗しながら慎重に注いだお茶を口にしてリブは細い目を更に細めて微笑んだ。
贔屓目なしに見てもアシュヴィンの淹れたお茶はかなりおいしい方に入ると言えた。
リブの表情を見て安堵のため息をついたアシュヴィンは、自分もお茶を口に含んで一つうなずいた。
「なるほどな、淹れ方一つでこれほど違うとは。」
「茶葉や湯の問題ももちりあんりますが、やはり淹れ方で茶の味は変わるものですので。」
「で、だ。」
「は?」
「茶が淹れられるようになったのはいいとして、ここにもう一つかなり大きな問題がある。」
「やっ、問題、ですか?」
おいしいお茶を淹れられるようになったというのに何が問題なのかとリブが小首を傾げると、アシュヴィンは今までの真剣な顔に更に苦悶の表情を足したような顔をしてリブに迫った。
「へ、陛下?」
「今の状態で、俺があいつに花の下で茶を飲み直そうと誘って出てくると思うか?」
「やっ……。」
地面を這うようなアシュヴィンの声にリブは苦笑したまま凍り付いた。
それは、間違いなく出てこない。
自分の中でそう結論して、リブは自分に課せられた次の仕事の大きさに再び凍り付いた。
「アシュヴィン…。」
花の美しい春の日、しかも天気も最高だというのに部屋にこもりきりでせっかくの休日を過ごすのはもったいないとリブにさんざん説得されて千尋はやっと部屋から足を踏み出した。
リブがおいしいお茶を淹れると約束してくれて、それを二人でゆっくり楽しめばいいと言われてはそれ以上ごねているのも大人気ない気がして出てきてみれば…
花の下で茶器に囲まれて待っていたのはアシュヴィンだった。
あっという間に千尋の表情は翳り、その碧い眼はリブを睨み付けていた。
「や、その…。」
「リブがおいしいお茶を淹れてくれるって言うから来たのに。」
「おいしいお茶はこれから飲めますので嘘は言っていないのですが…。」
「二人でお茶とも言ったよね。」
「それはまぁ、陛下と二人で、になりますので…。」
リブとしてはどちらも嘘はついていない。
もちろん苦しい言い訳だという自覚もある。
けれど、これくらいのことをしなければ千尋が出てくることはまず有り得なかったのだ。
リブは千尋を騙すような形になったことを申し訳なく思いながらもアシュヴィンに一礼して歩き出した。
「え、リブ、お茶は…。」
「それは俺が淹れる。」
「へ?アシュヴィンが淹れるの?」
「ああ、今そう言っただろう。」
慌ててリブの後ろ姿からアシュヴィンへと千尋が視線を戻してみれば、たどたどしい手つきながらも真剣な顔でアシュヴィンはもうお茶を淹れ始めていた。
初めて見るアシュヴィンの姿にさすがの千尋も怒っていたことを忘れてまじまじとアシュヴィンの姿を見つめてしまった。
お茶を淹れるどころか、当然料理をしたこともなければ、普段は着替えさえ一人ですることのないのがアシュヴィンだ。
生まれながらに皇族だったのだからそれは当然のことで、千尋もそう納得していた。
そのアシュヴィンが今、目の前で真剣にお茶を淹れている。
これはもう、天変地異と言ってもいいほどの事態なのだ、おそらく。
千尋はあっけにとられてアシュヴィンを見つめたまま立ち尽くした。
これは夢か奇跡かと、こっそり自分のほっぺたをつねってみたりしているうちに、アシュヴィンはお茶を淹れ終わったようで、ほっと安堵のため息をついた。
「はいったぞ。」
「あ、うん……。」
ついさっきまで怒っていたことも忘れて千尋はアシュヴィンの向かい側に座ると、すすめられたお茶を手に取った。
「淹れ方はリブ直伝だ、心配せずに飲め。」
「心配はしてないけど…。」
そう、心配はしていない。
アシュヴィンがその腕前を自分に見せるということは絶対にまずいお茶を淹れたりしない腕前になっているからだ。
そうじゃなければ、アシュヴィンは絶対に他人にお茶を淹れたりはしないはず。
千尋はそっと一口お茶を口にして、そして目を丸くした。
まずいということはないと思ってはいたけれど、千尋の口の中に広がったお茶は予想以上に香りもよくて、ひょっとするとリブが淹れたものよりもおいしいように感じた。
「おいしい…。」
「それは何よりだ。」
口ではぶっきらぼうにそう言いながら、アシュヴィンは安堵のため息をついていた。
これで怒りのままにまずいなどと言われたら、もうアシュヴィンには打つ手がない。
この瞬間までアシュヴィンが心配していたのは茶の味が千尋の口に合わないことだけだった。
「でも、どうしたの?急にお茶なんて……。」
「さっきは…俺が悪かったからな。」
「え?」
「茶を淹れるのがうまい男の方がお前の好みだというのなら、俺がそうなればよいと思っただけだ。」
ほんのり顔を赤らめながらそう言ってふいっと視線を反らすアシュヴィンに千尋は驚きを隠せなかった。
あのアシュヴィンが自分好みの男になるためにお茶を淹れる練習をするなんて想像もつかない話だった。
「な、なんだ…。」
「えっと……あ、有り難う。」
「ああ。」
これはいつもの謝罪以上のかなり心のこもった謝罪だと気付いた千尋は、その顔に喜びいっぱいの笑みを浮かべた。
するとつられるようにアシュヴィンの顔にも優しい笑みが広がって、あっという間に二人の間に温かな空気が舞い降りた。
「せっかく美しく咲いた花だからな、お前と見ずに終わるのは惜しいと思った。」
「そう、だよね。ごめんね、私も、その…大人気なく怒ったりして。」
「そう思うなら…。」
アシュヴィンは途中で言葉を切ると、すぐに立ち上がってそっと千尋の隣に座る。
「アシュヴィン?」
「お前は花よりもうまい茶を楽しみたいんだろう?楽しんでいろ。俺は咲き誇る花より美しい俺の奥方殿を楽しむことにする。」
「えっ…。」
言うが早いかアシュヴィンはいつの間にか回していた腕で千尋の腰を抱き寄せた。
かっと千尋が顔を赤くしながらうつむくと、その視界にアシュヴィンの淹れてくれたお茶の水面が揺れていた。
花より団子という言葉はよく聞くけれど、花よりお茶という人もいるのだろうか?
それより何より、花より妻という人はどうなんだろう…
などなど…
千尋が首まで赤くなる間にそんなことを考えていると、お茶の上に一枚の花弁が舞い落ちた。
「あ…。」
「綺麗だな。」
「うん。」
千尋は自分が綺麗だと思ったものをアシュヴィンも同じように綺麗だと思ってくれたことが嬉しくて思わず視線を上げて…
そしてそこで熱を帯びた愛しい人の綺麗な瞳に出会った。
はっとして視線を反らそうとした時にはもう遅くて、次の瞬間、千尋は優しく唇を奪われていた。
自分の手からいつの間にか力が抜けていることに気付いたのは再び唇が離れた時。
茶碗が落ちると千尋が焦ったのもつかの間、その碧い瞳はそっと茶碗を抑えているアシュヴィンの手を捕えていた。
「せっかく花が美しく彩ってくれた茶だからな。それに、お前も気に入っていたようだし。」
そっとアシュヴィンが茶碗を持ち上げて千尋に差し出すと、千尋はそれを嬉しそうに受け取って微笑んだ。
「有り難う。今日のお花見、私一生忘れないわ。」
心の底から嬉しそうに微笑む千尋の額にアシュヴィンはそっと口づけを贈った。
今日のこの日を一生忘れないと言ってくれた美しい妻に、今日のこの日の記念に。