雨の効用
 雨が降っている。

 千尋はその雨を窓からじっと眺めていた。

 昼過ぎに降り出した雨はあっという間に豪雨になり、すっかり陽が落ちた今も降り続いていた。

 そんな雨を千尋が窓から眺めているのにはわけがある。

 今日は朝早くからアシュヴィンが視察に出ているのだ。

 一日かかるといっていたからきっと雨に濡れたはず。

 視察先は少し離れていると言っていたからきっと今日はこんな雨に降られて、視察先に泊まってくることになっているだろう。

 そうじゃなきゃ、この土砂降りの雨で濡れ鼠になってしまう。

 千尋は一刻も早く顔を見たいという気持ちと、雨に濡れてほしくはないという気持ちの間で複雑な表情を浮かべていた。

 今日はこんなに激しい雨音の中で一人で眠ることになるのかと思うと、少しばかり憂鬱だ。

「はぁ…。」

 意識しないうちに千尋の口からは深いため息がこぼれていた。

 脳裏に浮かぶのは大好きな人の笑顔ばかり。

 それがどうしても見られないとなると見たいという思いばかりが募る。

「こんな刻限に一人でずいぶんと艶のあるため息をついているものだな。何を想ってのため息だ?奥方殿。」

「アシュヴィン?」

 急に背後から聞こえた声に千尋は慌てて振り返った。

 もしかしたら幻聴?とまで思った声の主は、ちゃんとそこに立っていた。

 ただし、千尋が思わず息を飲むほどいつもとは違ったいでたちだったが…

「ちょ、え、どうして…。」

「雨がひどかったんでな、黒麒麟で俺だけ先に戻った。」

 そう言うアシュヴィンはまだ濡れている頭を布でガシガシと拭いている真っ最中だ。

 そして、服装はというと…

 外出用のいつもの服ではなく、寝る時にまとうゆったりした服の胸元を大きく開けたままで、何やらほんのり肌が赤いように見えた。

 その胸元が部屋の小さな灯りに照らされてなんだかとても艶めいて見えて、千尋は思わず顔を赤くしてしまった。

「なんだ?どうした?せっかく夫が戻ってきたのに歓迎もしてくれないのか?」

「そ、そんなことないんだけど…なんかその……いつもと違うかっこうしてるから…。」

 視線を反らす千尋を見つめて小首を傾げてからアシュヴィンは自分の姿をじっと見回してみた。

 なるほど確かにいつもとは違う。

 そのことを確認すると、アシュヴィンはその整った唇に不敵な笑みを浮かべた。

「俺の肌など見慣れただろうに。」

「なっ!」

「まあ、お前のそういうところは好きだがな。」

「……。」

 言葉に詰まるばかりで顔を赤くする千尋にニヤリと笑って見せて、アシュヴィンは髪を拭いていた布をばさりと近くの机の上に放り出した。

「黒麒麟で急いだとはいえ、この雨だ、そこそこ濡れたんでな、みっともない格好で奥方殿に見限られてはたまらん。帰ってすぐに着替えたんだが、まだ肌が濡れていてきっちり着込むと気持ちが悪い。」

「ああ、そういうこと…。」

「俺が奥方殿を誘惑しているとでも思ったか?」

「ちっ…。」

「まぁ、半分はそうだということにしておこう。」

「アシュヴィン!」

 すっかりからかわれていることに気付いた千尋は顔を赤くしながらもその眉をきりりと上げて怒っているのだと主張するようにアシュヴィンを睨み付けた。

「そう怒るな。これでも視察から帰ったばかりで疲れているのにお前の顔を一番に見に来たんだぞ。」

「そ、それは……有り難う……。」

 アシュヴィンの言うことはもっともで、この雨の中、急いで帰ってきてくれた上に急いで着替えまでして会いに来てくれたのだ。

 ここは新妻としては帰ってきてくれたことを喜んでねぎらうべきだ。

 けれど、からかわれたことには腹が立つわけで…

 複雑な想いのまま千尋がぼそりと礼を口にすると、アシュヴィンは寝台に腰かけて千尋を見上げた。

「それにしても、よく降るな。」

「あ、うん。こっちは昼過ぎから降ってるよ。」

「あっちはもう少し遅かったな。明日もこの調子で振り続けるなら外出は取りやめだな。」

「また視察が入ってたの?」

「いや、兵の様子を見ることになってたんだが、まあ、急ぐ必要はあるまい。」

 それなら雨が降り続いていれば明日は一日休みということになるかもしれない。

 今日は雨に濡れながら帰ってきたのだし、明日一日休みというのはちょうどいい。

 千尋がそんなことを考えていると、アシュヴィンがそっと千尋の腕をとって自分の方へ引き寄せた。

「わっ、ちょ…アシュヴィン、危ない。」

「危なくなどない。俺が受け止めるからな。」

「そういう問題じゃなくて…。」

 赤い顔をしながらも文句を言うのを途中でやめたのは、背中にアシュヴィンの体温を感じたから。

 千尋は自分を抱き寄せるアシュヴィンの腕を感じながらうつむいた。

「体が冷えたのでな、ここは奥方殿に温めて頂くとしよう。」

「そ…。」

「俺が病になってもいいのか?」

「そういう問題じゃ…。」

「そういう問題だ。それに、俺はお前に会うために無理をして帰ってきたのだ。抱きしめるくらいはいいだろう?」

 耳元で囁かれて千尋に抵抗できるわけがない。

 雨音はひどくなる一方で、そんな雨の中を帰ってきてくれたのだ。

 それを思えばいくら恥ずかしくても、別に嫌なわけではないのだしと千尋は頭の中でぐるぐる考えながら自分の腰を抱き寄せるアシュヴィンの腕にそっと手を乗せた。

 まだ少し冷えているその腕がなんだかとても愛しくて、そっと優しく撫でると腰を抱くその腕に力が入った。

「アシュヴィン?」

「奥方殿はどうも今日は積極的だな。」

「はい?」

「誘っていたのだろう?」

「ちっ、違います!」

 背後でクスクス笑う声が聞こえて、またからかわれたのだと思うと悔しくて…

 けれど、強い力で抱きしめられているから立ち上がって逃げることもできない。

 千尋は一度顔を真っ赤にして怒って、そしてすぐにその怒りをおさめるとふっとため息をついた。

「どうした?」

「誘ってるとかじゃないけど…でも、こんなに腕が冷たくなるまで頑張って帰ってきてくれたんだなって思ったら嬉しかったから…。」

 そう、だから、ここは怒らずにいなくては。

 せっかく二人の時間を作るためにここにこうしていてくれるのだ。

 千尋はいつものように冗談やからかいではぐらかされないように、アシュヴィンの想いだけに目を向けることにした。

 すると自然と怒りはおさまって、その口元に微笑が浮かんだ。

 アシュヴィンはこうやってよく千尋をからかうが、それはだいたい自分の努力や弱みを千尋に見せたくない時や、照れているのを隠す時だ。

 もちろん、純粋に千尋の反応を楽しんでいるわけではないと断言はできないけれど、千尋はとりあえず今は苦労して帰ってきたのだということをアシュヴィンは今、自分に見せたくないのだろうと思うことにした。

「まったく、お前にはかなわんな。」

「何が?」

「何って…まぁ、なんでもな。」

「そう?」

 突然聞こえたアシュヴィンの穏やかな声に千尋は後ろを振り返った。

 するとそこには至近距離で苦笑しているアシュヴィンの顔が…

「あ、えっと…。」

「ん?」

「なんでもない。」

 慌てて視線を前へ戻して、千尋は顔が赤くなるのを止められなかった。

 薄明りの中で苦笑するアシュヴィンがなんだかとっても綺麗に見えて…

 でもとてもそんなことを本人に言うことはできなくて…

 また変な誤解をされたりからかわれたりするんだろうかと千尋がぐるぐる考えていると、アシュヴィンは千尋を抱く腕に軽く力を込めて背後から小さな耳に軽く口づけた。

「ひゃっ、びっくりするじゃない!」

「あんまり愛らしい耳だったんでな。」

「もぅ!」

「お前はそれくらい元気な方がいい。」

「元気って…それはお転婆って言いたいの?」

「まぁ、そうともいうな。」

 今度はむっとした顔で振り返ると、千尋の目に目を細めたアシュヴィンの笑みが映り込んだ。

 今度こそ心臓がどうにかなるんじゃないかと思うくらいドキリとして視線を前へ戻そうとすると、アシュヴィンがそれを許さずに千尋の背後にあった寝台へと押し倒した。

「せっかく奥方殿の表情を堪能しているのにまた後ろを見せる気か?」

「だって、恥ずかしい…。」

「何がだ?」

「何がって……。」

 何がと言われてもすぐには答えが見つからなくて千尋がもごもごと口ごもっていると、アシュヴィンはため息をついてから千尋の隣に寝転がって千尋の肩を抱き寄せた。

「アシュヴィン?」

「これでも疲れているんでな、少し休ませろ。」

「あ、うん、ごめん。気が付かなくて…。」

「いや、奥方殿が望んでくれるなら朝まで寝ないという選択肢がないではないがな。」

「その選択肢はなし!」

「そういうだろうと思った。」

「べ、別に嫌とかそういうわけじゃなくて…。」

「わかっている。体を壊す前に休めと言うんだろう?」

「うん。」

「だったら、せめてこうして添い寝くらいはしてくれ。そのために戻ってきたんだからな。」

 そういうアシュヴィンの声はどんどん小さくなっていって、千尋が気付いた時にはもうその瞳はしっかりと閉じられていた。

 聞こえてきたのは規則正しい寝息。

 千尋を口説く間もなく眠ってしまうのはアシュヴィンにしては珍しい。

 よほど疲れているのに帰ってきてくれたのだと改めて実感して、千尋はアシュヴィンの方へとそっと身を寄せた。

 せめて眠っているとしても温もりだけは伝わるように。

 どうか幸せな夢が見られますように。

 そう願わずにはいられない。

「おやすみ、アシュヴィン。今日は有り難う。」

 そっとそうつぶやいて千尋は大好きな人に寄り添って目を閉じた。

 外は豪雨。

 恐ろしいほどの音をたてて降る雨もこうしていれば少しも気にはならない。

 明日も雨ならきっと二人でゆっくりしよう。

 朝は笑顔でおはようとあいさつを交わそう。

 そんなことを思っている間に千尋は眠りへと落ちていった。








管理人のひとりごと

まぁ、雨にぬれるといつもと雰囲気が違うよね?ってことです、ハイ
アシュヴィン辺りはかっこよく見えそう(w
千尋ちゃんのためならまぁ、アシュヴィンは帰ってくるね。
嵐くらいどうってことないね!
で、凄く帰ってくるのは大変だったんだけど、そんなこと愚痴ったりはしないね!
ネタにして甘えることはするかもしれないけど(’’)
雨に濡れても悪いことばかりじゃないと思って頂ければ幸いです(^^)







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