お帰り
「きゃっ、ごめんなさい…ってアシュヴィン。」

 千尋は部屋から飛び出して扉のすぐ向こうにいたアシュヴィンに激突した。

 勢いよく突進してきた新妻を受け止めて、アシュヴィンは目を丸くしている。

「なんだ、何をそんなに急いでいる?」

「アシュヴィンこそ、朝からこんなところで何してるの?」

「何をしているかだと?この忙しい常世の皇様が朝から新妻の部屋の前にいたのだぞ?妻と共に過ごそうと思ってやってきたに決まっているだろう?」

「えっ、アシュヴィンって今日休みとれたの?」

「昼までだがな。」

「……ごめんなさい、今日はちょっと…。」

「なんだ、予定があるのか?聞いていないぞ。」

「うん、昨日シャニと約束してて…。」

「シャニ?」

 アシュヴィンは深い溜め息をついた。

 弟のシャニは突然できたこの義姉をとても慕っている。

 何かといえば張り付いて離れないし、アシュヴィンが忙しくて千尋の相手をしないのが悪いのだと言い張ってよく一緒にでかけたりもする。

 アシュヴィンにとってはかわいい弟でもあるし、妻を慕ってくれるのが悪いわけではないのだが…

 弟といってもそこはそれ、妻を独り占めされて気持ちがいいはずもない。

「俺の方が優先だ。シャニには断りの使いを…。」

「あ、お姉ちゃんまだこんなところにいたんだ!って、兄さま…。」

「シャニ、悪いが千尋は…。」

 どうやらあまり千尋が来るのが遅いので待ちきれずに迎えにきたらしいシャニに、アシュヴィンは厳しく千尋を取り上げる旨を言い渡そうとして言葉を飲み込んだ。

 シャニがうるうると泣きそうな目で自分を見上げていたからだ。

「……。」

「今日はお姉ちゃんと花畑へ行く約束してて……ダメ?」

「……。」

 泣きそうな顔で必死にうったえられて、アシュヴィンは眉間にシワを寄せて凍りついた。

 これはダメだと言ったら絶対に泣かれる…

 そして結局のところ千尋が慰めることになって、結果、千尋はシャニに取り上げられてしまうだろう。

 だいたい、シャニに泣かれるとアシュヴィンは弱い。

「どうしても、ダメ?」

「……わかった、ただし、お前がちゃんと千尋を守るんだぞ、お前も常世の皇子なのだからな。」

「もちろんっ!まっかせてっ!さ、行こう!お姉ちゃん!」

「え、でも…。」

 深い溜め息をつくアシュヴィンのことが気になりながらも、千尋は張り切るシャニに手を引かれて歩き出した。

 後ろを振り返るとどこか寂しげな顔で見送るアシュヴィンの姿が見えて…

 千尋は楽しい散歩のはずなのに胸の奥がちりりと傷むのを感じていた。





「お姉ちゃんは兄さまを甘やかしすぎだよ。」

「そ、そうかなぁ…。」

 シャニ自慢の花畑に到着して、二人でその真ん中に座って辺りの花の香りを楽しみながら千尋はシャニの話し相手をつとめている。

 シャニは幼くても聡明で闊達だ。

 そんなシャニが千尋も可愛くてしかたがないから、普段ならとても楽しい散歩になるはず、だったのだが…

 千尋はずっと置いてきてしまったアシュヴィンのことが気になっていた。

 せっかく作ることができた時間を自分のために使おうとしてくれていたアシュヴィン。

 いつもは忙しくてなかなかゆっくり会えないし、視察で何日も会えないこともある。

 だから数時間という短い時間でもちゃんと千尋に会いに来てくれたのだ。

 それなのに…

「また兄さまのこと考えてるでしょ?兄さまにはもうちょっと冷たくした方がいいよ、絶対!」

「そ、そんなことはないと思うけど…だって、アシュヴィンは皇として凄く一生懸命頑張ってるんだし、私のことだっていつもちゃんと気にかけてくれてるし…。」

「ダメダメ。兄さまは甘やかすと絶対つけあがるんだから!」

「つけあがるって…。」

 弟とは思えないシャニの発言に千尋は苦笑した。

「兄さまはああ見えてけっこうわがままなんだよ。」

「ああ、うん、そういうところもあるかもねぇ。」

「だから、今のうちから厳しくしておかなくちゃ!絶対後でお姉ちゃんが苦労するよ!」

「苦労はしないと思うけど…。」

「ううん、絶対苦労する!それに少しくらい冷たくした方が絶対いいよ。兄さまはあれでけっこうもてるし。」

「へ?」

「お姉ちゃんが来てくれてからはさすがにお姉ちゃんだけになったけど、前は色んな女の人と付き合ったりしてたんだ。だから、ちょっと冷たくするくらいの方が兄さまもお姉ちゃんに捨てられないようにって気を使うから、その方がいいよ。」

「……。」

 アシュヴィンは自分よりずっと年上で大人だし、それはそうだろうと頭ではわかっていた。

 わかっていたはずなのに弟のシャニにこうもはっきりと断言されてしまうと、さすがに千尋は動揺した。

 アシュヴィンのことを信じていないわけではないけれど、自分一人だけを好きでいてほしいなんていう資格が自分にあるかと言えば自信がない。

 アシュヴィンは常世の皇子だったわけだから、周りにいた女性達もきっと綺麗で上品でおしとやかだったに違いない。

 そんな女性達と比べられたら…

「ね、だから、お姉ちゃんは兄さまには少し冷たくした方がいい。そのためにはボクとこうして散歩に出るのが一番!ね!」

「シャニったら。」

 結局、自分をかまってくれというおねだりなのかと苦笑しながら、それでも千尋の胸の内はどんよりと曇ったままになった。

 せっかく自分のために時間を使おうとしてくれていたのに置いてきてしまったこと。

 シャニから聞いたアシュヴィンの過去の話。

 それらが千尋の頭の中でぐるぐると渦巻いて…

 シャニと並んで帰る間も千尋はシャニの楽しそうな声をどこか上の空で聞き続けた。





 もう少しだけ一緒にいたいというシャニに離してもらえずに帰ってきてからもしばらくはシャニのところにいることになって、千尋が解放されて自分の部屋へ戻れるようになったのはもう夕暮れ時だった。

 部屋へ戻って一休みしたらもうすぐ夕食の時間だ。

 千尋はほっと溜め息をつきながら誰もいない廊下を自分の部屋へ向かって歩いた。

 今頃アシュヴィンは仕事だろうか?

 今朝のこと、怒っているだろうか?

 いくらシャニがかわいい義弟とはいえ、やはりあれは断ってアシュヴィンと過ごす時間を選択するべきだったんじゃないだろうか?

 もし怒っていたらどうしよう?

 そのせいでそれこそアシュヴィンが昔からたくさんいた恋人ととやらに心を移してしまったりしたらどうしよう?

 などなど…

 千尋の頭の中はもう後ろ向きなことでいっぱいだ。

 夕食はアシュヴィンと一緒にとれないだろうか?

 誘って断られたらどうしよう…

 そんなことまで思って泣きそうになりながら千尋が自分の部屋の扉を開けて中へ入ると…

「遅かったな。」

 急に目の前が真っ暗になって、頭上から心配そうな声が降ってきた。

「へ?アシュヴィン?」

「まったく、シャニはどれだけお前を独り占めにすれば気が済むのだ。」

「えっと…どうしてここに?」

「待っていたに決まっているだろう、お前を。」

「はい?」

 ギュッと抱きしめられて、千尋の頭の中は真っ白になった。

「お前の帰りが遅いから待っていた。」

「ご、ごめんね、心配かけて。」

「ああ、そう思うなら、そうだな、もう少し早く帰って俺との時間も少しは作ってくれ。」

「も、もちろんだよ!次からは絶対!絶対気をつけるから…。」

 最後の方は泣きそうに声が震えて…

 千尋はアシュヴィンの胸に顔をうずめる。

「どうした?泣いているのか?何かあったのか?シャニが何かお前を困らせるようなことをしたのか?」

 千尋はただだまって首をふるふると横に振った。

 色々心配なことがあって、寂しくて悲しくて、でもそんなのはこんなところでずっと自分を待っていてくれたアシュヴィンのおかげで吹き飛んで…

 嬉しくて幸せで、それと同じくらいアシュヴィンに申し訳なくて、千尋はどうしても涙を押さえられなかった。

「どうした?なんだ、具合でも悪いのか?」

「違うの……朝…ごめんね。」

「は?」

 アシュヴィンはやっと千尋の口から紡がれた数少ない言葉をゆっくりと頭の中で吟味して、そしてようやくその顔に微笑を浮かべた。

「なんだ、今朝のことをそんなに気にしていたのか。あれはシャニが悪い。俺もシャニのわがままはどうしても聞いてしまう。シャニを行かせた俺も悪い。気にするな。」

「うん…ありがと……。」

 これで憂いが晴れたかと思えば千尋はまだ顔を上げてはくれない。

 アシュヴィンは小首を傾げて、それから優しく千尋の髪をなでた。

「なんだ、まだ何かあるのか?」

「アシュヴィン……。」

「ん?」

「私のこと……嫌いにならないでね?」

「はぁ?」

 なんだそれは。

 アシュヴィンは心の中で叫んでいた。

 何がどうしてそんな話になるのか見当もつかない。

「何の話だ?今朝のことならもう気にしなくていいと言っているだろう。」

「違うの……アシュヴィンは女の人にもてるってシャニが…言ってたから……。」

 アシュヴィンの眉間にシワが寄り、次の瞬間、深い溜め息が千尋の頭上で聞こえた。

「シャニのやつ、よけいなことを…。」

 忌々しげにつぶやくアシュヴィンの声に思わず千尋が涙に濡れた視線を上げれば、アシュヴィンがそんな千尋の視線を受け止めてはっと目を丸くした。

「そんな顔で俺を見るな。」

「ご、ごめん…みっともない泣き顔で…。」

「そうじゃない。そんな切ない顔をされると…。」

 そこまで言って先の言葉を飲み込んで、アシュヴィンは自然に優しく千尋に口づけた。

「我慢できなくなるだろう。」

 唇を離してそういったアシュヴィンはとろけるような幸せそうな顔をしていて、千尋は顔を真っ赤に染めた。

「そ、そんなこと言われても…。」

「シャニが何を言ったのかだいたい予想はつくが…案ずるな、今の俺にはお前しかいない。」

 ふわりと体が温かくなったかと思うと、千尋はまたアシュヴィンにギュッと抱きしめられていた。

 するとさっきまでの心配や不安はどこへやら。

 千尋はとても幸せな気持ちになってアシュヴィンの胸にうっとりともたれた。

「今の俺にはお前しかいないのだから夕食くらいは共にとらせてくれ。」

「あ、それは…。」

「なんだ?また予定があるのか?」

 また断られるのかとアシュヴィンが眉をひそめて千尋を抱く腕に力をこめた。

「悪いが今回は譲れない。」

「ち、違うの…夕食を一緒にって私も誘おうと思ってたから、ちょっとびっくりしただけ…。」

「そういうことか、なら、夕食は共にできるな?」

「うん。」

 千尋は一度視線を上げてアシュヴィンににっこり微笑んでうなずいて見せると、再びその胸にうっとりともたれた。

 アシュヴィンは黙ってそれを受け止めてくれて…

 短くてもやっと二人きりでいられる一時を、千尋とアシュヴィンは静かに堪能するのだった。








管理人のひとりごと

初シャニ登場です(笑)
イメージ違ってたらすみません(^^;
シャニはなんだかんだでとってもちゃっかりしてそうなので、大好きなお姉ちゃんは何気に独り占めしそうです(w
油断すると成長した弟に殿下も妻をとられそうですよ(w
てな管理人の妄想(’’)
アシュは皇子様だったんでそりゃもてただろうなぁと思ったんで、そんな過去を捏造しました(’’)
まぁ、だからこそ千尋ちゃんに出会ったら一筋になっちゃったりするわけですね!
どんな女より千尋がいいぞ、みたいな(w
そういう甘いのがこれから書けたらいいなと思います(’’)





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