
仕事が多いことは覚悟していた。
それが常世の皇となったせいだとなれば、当然、それを受け入れるつもりでもある。
だが、それにしても忙しすぎる。
視察視察と視察に周り、帰れば役人達の報告を聞き、あらゆる報告文書に目を通し、決裁を下す。
気づけば夜になっていて、疲れて床に横になれば気絶するように眠っているような始末だ。
見る顔見る顔むさい男の役人の顔ばかりで、せっかく手に入れた新妻と顔をあわせる暇さえない。
それでも妻の方が気を使ってくれて、時々食事は一緒にできるが、ゆっくり顔をあわせるのはそれくらいだ。
同じ屋根の下に暮らしているのに顔をあわせるだけで言葉を交わせない日さえある。
ここ一週間は特に忙しく、毎日視察をしているか役人と話し合っているか寝ているかだった。
「陛下、決裁をお願いしたいんですが…。」
「うるさい!」
扉の向こうで役人の声がして、アシュヴィンは思わず怒鳴っていた。
忙しさのせいでイライラが限界のところに決裁ときた。
これ以上仕事などしてやるものかとアシュヴィンは机の上に足を放り出し、腕を組んで目を閉じた。
冗談ではない、このままだと自分はせっかく得た愛しい妻と会話一つ満足にできない上に、剣の鍛錬もできず、腕もにぶってしまいそうだ。
常世の皇ともあろうものが剣の腕がにぶるというのも許せない。
考えれば考えるほど理不尽を感じる。
「くそっ!」
アシュヴィンは足を下ろして深い溜め息をついた。
こんなにイラついたのはいつ以来のことだろうか。
「陛下、リブです、中へ入れて頂けませんか?」
今度は扉の向こうでリブの声がした。
さっきの役人が皇の機嫌が悪いからといってリブを呼んだのだろう。
リブはアシュヴィンがまだ常世の皇子だった頃からの部下だと誰もが知っている。
しかも、常にアシュヴィンと共にあり、共に中つ国の連中のもとへ走り、最終決戦でも同行していた。
それほどの腹心ならば皇の機嫌が悪くてもとりなすことができると考えたのだろう。
そう思うと、アシュヴィンは返事をする気も起きない。
機嫌をとられることさえ腹立たしいのだ。
「や、陛下、お休み中ですか?入りますよ?」
しばらくしてリブがそんなことを言い出したのでアシュヴィンはその辺にあった花瓶を扉へ投げつけた。
ガシャンと派手な音がして破片と水といけてあった花が床に飛び散った。
「誰も入るな!」
「陛下…どうなさったんですか?」
聞き慣れたリブの声にも何故だか今はイラつくばかりのアシュヴィンは答えようともしない。
椅子に深く座って窓の外を眺めればやけに天気がいい。
それさえもイライラの原因になった。
こんなに天気がいいなら、仕事さえなければ妻と遠出をしたものを…
「陛下、話して頂かないと、どうしたらいいのか…。」
「少しは好きにさせろ!こっちは虫の居所が悪い!」
そうとだけ言ってアシュヴィンはまた窓の外を眺めた。
流れる雲も窓から入り込む風も何もかもが忌々しい。
皇になるとこうも自由がきかないものか。
皇子の頃から皇族など不自由なものだとは思っていた。
だが、皇となるとそれどころではない。
覚悟はしていたが自由がきかないのは思いのほかアシュヴィンにはこたえた。
しばらくそうやってアシュヴィンが一人でイライラしていると扉の向こうが静かになった。
人の気配も消えた。
どうやら不機嫌極まりない主にはかかわるまいと部下達が解散したようだ。
アシュヴィンはほっと一息ついて立ち上がると窓辺に歩み寄った。
ゆっくりと外を見回せば立ち話をして微笑む女官やいそいそと早足で歩く官人達の姿が見える。
視界の片隅には剣の修行をしている兵の姿も見えた。
それは平和な日常の風景だ。
この平和を手に入れるために多くの犠牲を払った。
だからこそ、この平和を維持するために努力を惜しむつもりはない。
だが、自分がこの平和な常世を感じることができなくなっては意味がないではないか。
アシュヴィンは平和な風景を眺めながらまた溜め息をついた。
するとその時、扉の向こうに人の気配がした。
「アシュヴィン、話があるんだけど…。」
アシュヴィンはその声に慌てて扉へ駆け寄ると、一瞬の逡巡もなく扉を開けた。
聞こえてきたのが間違えようもない、愛しい妻の声だったからだ。
「どうした?珍しいな。」
「なんだ、全然すぐ開けてくれるじゃない。」
「はぁ?」
アシュヴィンのわきをするりと抜けて部屋の中へ入った千尋はまず床に散乱している花瓶と花を見て目を丸くした。
「リブが、どうしてもアシュヴィンが部屋から出てきてくれなくて、話も全然聞いてくれないって私に助けて欲しいとか言ってきたからどんなことになってるのかと思って…。」
「リブのやつ…。」
「全然いつも通りって思ったけど、そうじゃないみたいだね。」
千尋は小さく溜め息をつくと床に散らかっている花を拾った。
「ああ、それか…イラついてついな…。」
「気に入らなかった?」
「何がだ。」
「この花が…。」
そう言って手にしている花を見つめる千尋はとても悲しそうだ。
そんな千尋を見てアシュヴィンは顔色を青くした。
何故ならあることに気付いたから…
「まさか、それはお前が?」
「うん、まぁ、少しでもアシュヴィンの疲れがとれないかなって思って飾ったんだけど…ごめんね、邪魔だったんだね。」
「違うっ!それは…リブがあまりうるさく言うからイラついて…つい手近にあったものを投げた…すまん…。」
「ああ、なるほど、それでリブが困り果てて私のところへきたのね。」
そう言って苦笑する千尋から花を取り上げて、アシュヴィンはそれを机の上に置いた。
これは後でちゃんと違う花瓶にいけ変えなくては。
「どうしてそんなにイライラしていたの?私には普通に話すのにリブには花瓶なげつけるなんて…。」
「ここ一週間、視察と報告と決裁に追われていてな……。」
「ああ、そうだよね、いそがしかったよね、アシュヴィン。」
「お前とも朝の挨拶やら夕食か朝食を一緒にとるか、それくらいしか顔を合わせていないはずだ。」
「うん、そうだね、ちょっと…寂しかった、かな。」
「……すまん。」
「あああああ、謝らないでよ!アシュヴィンのせいだとは思ってないから!」
「常世の皇になっても視察はまだしも、くだらん報告にくだらん決裁の山だ。毎日がそれだけであっという間に過ぎていく。お前に会う時間もなければ剣の鍛錬もできん、腕がなまりそうだ。」
「そっか、それはストレスだね。」
「すとれす?」
「そう、ストレス、私が向こうの世界でよく聞いた言葉。アシュヴィンには気分転換が必要ってこと。」
「気分転換、か。」
コクコクとうなずいて見せる千尋は愛らしくて、アシュヴィンは思わず目を細める。
金の髪も碧い瞳もこんなふうに近くでじっくり見つめるのは何日ぶりだろうか。
「気分転換か、いいことを思いついたぞ。」
「黒麒麟に乗って遠出でもする?」
「ああ、お前と共にな。」
そう言ってアシュヴィンは千尋を横抱きに抱き上げると扉を蹴り開けて外へ出た。
「ちょっと、アシュヴィン!私はちゃんと一人で歩けるから!」
真っ赤な顔でそう千尋が抗議してもアシュヴィンが千尋を下ろす気配はない。
驚きで目を丸くする官人達の間を上機嫌で歩くアシュヴィンは、やがてリブの姿を見つけて足を止めた。
「や、陛下、お出かけですか?」
「ああ、今日は一日、遠出をしてくる。たまには好きにさせろ。くだらん決裁は全てお前に任せる。」
「陛下、それはないですよ…。」
がっくりと肩を落とすリブをそのままに、アシュヴィンは再び歩き出した。
目指すは根宮の外。
愛しい妻のぬくもりは何よりもアシュヴィンの胸を晴れやかにする。
真っ赤な顔をした千尋を抱き上げたまま、アシュヴィンは大きな扉から外へと出て行った。
そしてそれを見送ったリブは…
「や、さすがは姫様、お見事です。」
「一時はどうなるかと思いましたが。」
「陛下には姫様が最終最強兵器ですからね。」
隣に立つ官人にリブはそう言って微笑むのだった。
管理人のひとりごと
怒って閉じこもるアシュヴィン編です(爆)
そりゃもう作戦なんて立てなくても千尋ちゃんに行ってもらえば一発で扉は開きます!
リブがなんかとばっちりを食ってますが、彼はいつものことなのでたぶん慣れてます(’’)
アシュヴィンは自由奔放な所がありますが、たぶん皇の仕事はしっかりやっちゃうと思うんですよね。
一生懸命やりすぎてたまにキレると(マテ
たまには千尋ちゃんに癒してもらわないとね(^^)
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