扇風機
「暑い。」

 寝間着の胸元をはだけたまま、だらしなく寝台の上に転がっているアシュヴィンがぼそりとつぶやいた。

 目覚めてからこれまで、何度となく同じつぶやきを繰り返している。

 それを聞いている千尋はというと、しっかりといつもの服に着替えて苦笑を浮かべていた。

 アシュヴィンの言うとおり、とにかくここ数日は暑い。

 千尋も油断するとつい暑いと口からついて出てしまうほどだ。

 けれど、暑い暑いと口で言っても涼しくなるわけじゃない。

 だから千尋は極力暑いと言わないようにしているのだけれど…

 千尋の夫はというとそうはいかないらしかった。

「や、陛下、まだそのお姿でしたか。」

 アシュヴィンを仕事へ駆り立てる役目を負わされたらしいリブが姿を現すと、アシュヴィンの眉間には明らかに不機嫌を主張する皺が刻まれた。

「服を着ると暑いからだって。」

 むすりと黙り込むアシュヴィンに代わって千尋が説明すれば、リブは困ったように頭をかいた。

「お前が涼しくなる何かを発明すれば俺の仕事も早く終わるようになるぞ。」

「や、そんな無茶をまた…。」

「アシュヴィン、そんなにリブを困らせないで。」

 千尋はアシュヴィンの着替えを手にすると寝台へと歩み寄った。

 こうして千尋が手ずから着替えを手伝えばようやくアシュヴィンは機嫌を良くして着替えを始める。

 それがここ数日の風景だった。

「仕事が早く終わったら夕涼みに付き合ってあげるから。」

「ほぅ、それは悪くないな。」

「でしょ、だから頑張って仕事してきて!」

 なんとかアシュヴィンを起き上がらせた千尋がそう言えば、アシュヴィンはニヤリと笑って千尋に軽く口づけると着替えを終えて部屋を出た。








 アシュヴィンは不機嫌そうに顔をしかめながら歩いていた。

 一日中暑くて不愉快だったというのはもちろん不機嫌の理由の一つだ。

 けれど、不機嫌の理由は一つだけではない。

 執務中、目を休めようと外を眺めると、たまたま千尋とリブが並んで歩いているのを見かけた。

 その後でリブがその後何をしていたのかと部下に調べさせてみると、一日工房にこもっていたと言う。

 しかも、工房には千尋も一緒だったと報告された。

 万が一にもリブと千尋が疑われるような仲になっているとは思わない。

 思わないが、気分は悪い。

 自分は仕事に追われて愛しい妻と共にいることがかなわないというのに、リブがその分一緒にいるというのが気に入らない。

 そんなことを考えながらアシュヴィンは執務を早めに切り上げると千尋の部屋へ足を向けていた。

 軽くノックをすれば中から聞こえてきたのは朗らかな千尋の声。

「アシュヴィン!お疲れ様!」

 扉を開けて中へと足を踏み入れれば、そこには満面の笑みを浮かべた千尋が立っていた。

 アシュヴィンは何も言わずにすたすたと千尋の元へ歩み寄ったかと思うと、小首を傾げている千尋にいきなり口づけた。

「ちょっ、アシュヴィン!いきなり何するの!」

「何と問われれば、口づけだ。」

「なっ……そういうことを言ってるんじゃなくて!もぅ!」

 開き直ったアシュヴィンに呆れて千尋は小さなため息をついた。

 そんなことはおかまいなしに、今度はアシュヴィンの長い腕が千尋にのびた。

 このままだと腕の中に閉じ込められて、その後はどうなるか…

 それを予想した千尋はひらりと身をかわしてアシュヴィンと距離をとるとキリリと不機嫌そうに歪んだアシュヴィンの顔を睨みつけた。

「何故逃げる。」

「帰ってきて『ただいま』も言わないでいきなり色々しようとするから!」

「夫が妻を愛でて何が悪い?」

「そういうことじゃなく…なんか、なんていうか……やけっぱちな感じがしていや…。」

「……。」

 千尋の指摘が図星過ぎてアシュヴィンは言葉に詰まった。

「何か、あったの?」

 突然、心配そうな千尋に覗き込まれてアシュヴィンは眉根を寄せた。

 何かあったのか?と問われれば、間違いなく何かはあった。

 アシュヴィンはこんなことを問えば千尋の機嫌は間違いなく悪くなるとわかっている質問をせずにはいられなくなった。

「お前、昼、リブと工房で何をしていた?」

「へ?何で知ってるの?」

「知られちゃまずいのか?」

「まずいってわけじゃないけど……驚かせたかったというか……って、え?もしかしてアシュヴィン、私とリブのことを疑ってるの?」

「疑ってはいない。」

「嘘!疑ってる!だからそんなに機嫌が悪いのね。」

「違う。疑ってはない。疑ってはないが、俺が仕事をしている間にお前が他の男と過ごしているというのは気分のいいものじゃない。」

「他の男って、リブだよ。」

「リブとて男に違いはない。」

 機嫌悪そうに断言するアシュヴィンを前に千尋は「はぁ」と聞こえるほど大きなため息をついた。

「確かにね、リブが男っていうのは間違ってないけど…私はただ、ちょっと作ってもらいたいものがあったからお願いしてただけだから。」

「作ってもらいたいもの?」

「そう、工房でこんな感じにっていうのをずっと説明していたの。私、設計図とかは書けないから口で説明するしかなくて、それでずっと一緒に工房にいたの。」

 なるほどそういうことかと、聞いてみれば千尋がリブと共に工房にいた理由は至極簡単なものだった。

 アシュヴィンは取り合えずほっと胸を撫で下ろして、そうなると今度は一日かかって千尋はリブに何を作らせたのかが気にかかった。

「で、お前はリブに何を作らせたんだ?」

「ああ、それはね、これ。」

 千尋は部屋の隅に置いてあった何やら見慣れない発明品を持ち出してきた。

 それを窓辺に置き、羽根のようなものをアシュヴィンの方へ向けると、後ろについている取っ手をつかんでぐるぐると回し始めた。

 すると…

 歯車で噛み合わせてあるらしい羽根がくるくると回り、羽根が回転すればするほどアシュヴィンの方へそよそよと心地良い風が吹いてきた。

 アシュヴィンの目が一瞬で大きく見開かれる。

「どう?少しは涼しい?」

「あ?ああ、だがこれは……。」

「実はね、私が前にいた世界には扇風機っていうのがあって、これと構造は良く似てるんだけど本物は人が動かさなくても電気っていう特別な力で動くのね。でもこっちには電気がないから、手動で動くようにしてもらったの。」

「せんぷうき、か……。」

「エアコンが作れればもっとよかったんだけど、私は構造も全然知らないし…これはね、こんな感じの物って説明したらリブがすぐわかってくれて、ちょちょちょいっていう感じで作ってくれたの。」

「まあ、あいつは発明が娯楽という奴だからな。にしても、良くできているな…。」

「でしょ、私も想像していたより凄く良くできててびっくりしちゃった。」

 千尋が嬉しそうにくるくると取っ手を回せば、羽根も勢いよく回転して、アシュヴィンは暑さなどすっかり忘れてしまった。

 それほど風は心地よかったし、千尋の思い付きにも驚いていた。

「着替えて。ご飯食べて、寝る時には私がずっとこれを回しててあげるから安心してね。」

「お前が回すのか?」

「もちろん。そうすればアシュヴィンが涼しく眠れるでしょう?」

「お前が回すことはなかろう?」

「だって……他の人を呼んだら、二人きりじゃなくなっちゃうじゃない…。」

 顔を赤くしてうつむく千尋にアシュヴィンは満足げな笑みを浮かべた。

 二人きりの時間を失うくらいならこれくらいの労働は自分が買って出ようというのだ。

 その愛らしい申し出にアシュヴィンが喜ばないはずがない。

「食事はいい。」

「へ?」

「仕事をしながら軽く食べてきた。お前もこの時間だ、食事は済ませてあるのだろう?」

「それはまぁ…アシュヴィンが食べるなら側にはいようと思ってたけど…。」

「いらん。」

 言うが早いかアシュヴィンは上着を脱ぎ捨てて千尋を抱きしめた。

 千尋の手が止まると同時に手動扇風機の羽根も止まって、部屋の中に流れていた風が姿を消す。

「あ、アシュヴィン、これじゃあ回せない。」

「ああ、それは後でいい。今は俺の相手をしてくれ。」

 そう言って静かに愛しい妻の唇を奪えば、抵抗する様子はなくて…

 千尋はそのまま寝台の上へと導かれてしまった。







 月明かりが窓から差し込む中、アシュヴィンはくるくると扇風機の取っ手を回していた。

 寝る時にはそれを回してアシュヴィンの快眠を約束した千尋はというと、寝台の上で息を切らせている。

 顔は紅く上気して、既に指一本を動かすことも面倒だといった様子だ。

 額にも首元にも汗が光っている千尋を見るに見かねて、アシュヴィンが扇風機を持ち出したのだった。

 そよそよと心地良い風に気付いて千尋が視線を送れば、そこには月明かりにうっすらと照らされたアシュヴィンの笑顔があった。

 ああ、この人を涼しくしたくて扇風機を作ってもらったのにと思ってみても、千尋の体は倦怠感でいっぱいで動いてはくれない。

「アシュヴィン…。」

「いい、お前はそのまま寝てしまえ。どうせ起き上がれないのだろう?」

「ごめんね…。」

「どうして謝る?お前が起き上がれない原因は俺だろう?」

 艶っぽく囁いてやれば、千尋は顔を真っ赤にしてアシュヴィンに背を向けた。

 夜の闇の中に白く輝く千尋の背に扇風機で風をそよがせてやりながら、アシュヴィンは満足そうに微笑んでいた。

 扇風機の風に千尋の金の髪がそよいで、今見ている風景はなんとも美しい。

 こんな光景を見られるなら、そしてこの扇風機のおかげで千尋が安らかに眠ることができるなら、自分は一晩中でもこの取っ手を回し続けてやろう。

 アシュヴィンがそんなことを思っていると、とうとう疲労感に負けたのか、千尋が小さな寝息をたてはじめたのが聞こえてきた。

 愛しい妻の愛らしい寝息に更に気分を良くしたアシュヴィンは、扇風機を回す手を止めて、千尋の背にそっと寄り添ってその身を横たえた。

 すると、風が止まってしまって今度は寝苦しい。

 じろりと動かなくなった扇風機を睨み付けて、アシュヴィンは今度はこの扇風機が自動で動くようにしろとリブに命じておこうと心に決めた。

 この扇風機を回すために他人を寝室に入れるという選択肢は、もちろんアシュヴィンの中にも存在しなかった。








管理人のひとりごと

まだ暑いよ!
ということで暑いネタで一本。
さすがのリブは千尋がこんなの作って!ってお願いしたら作ってくれましたというお話(笑)
さすがにエアコンは無理だろうなぁ。
あと、殿下、自動で動く仕組みってリブになんて酷な命令を…(w
でもリブはなんだかんだで作りそうだなぁ(’’)








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