
「や、これは皇后陛下…。」
千尋が廊下を歩いていると、何やら隙間から部屋をのぞき見ているらしいリブにばったり出くわした。
声を小さくしている辺り、どうやらリブはいけないことをしているらしいと気がついて千尋はクスッと笑みを漏らした。
千尋自身は政務の合間の気分転換に庭へ出てみようと思って歩いていただけで、別にここでリブの小さな悪事を暴き立てるつもりもない。
だいたい、リブがこっそり覗き見をしているなんて、どう考えてもアシュヴィンのためにやっていることに違いないのだから、目くじらを立てる必要もないはずだった。
だから、千尋はちょっとだけ何を覗いているのかを聞いて、それを聞き流して庭へ向かうつもりだったのだ。
「リブに皇后陛下なんて呼ばれるの、なんだかまだ違和感があるわ。」
「や、そうでしょうか……。」
珍しく慌てている様子のリブに笑みを深くして、千尋はその隣に立った。
「何を覗いているの?」
「いえ、その……陛下お一人にお話ししたきことがあると異国からの使者が申しますので席を外したのですが……気になりまして…その……。」
「何か問題がありそうなの?」
「あってはいけないと思いまして……。」
歯切れの悪いリブの物言いに小首をかしげて千尋はこっそり扉の隙間から中を覗いた。
すると中には……
「女の人が2、4……8人…これって……。」
「や、その……陛下は後宮に奥方以外はまだ誰も入れていないと周囲の国でも有名ですので…その……。」
「つまり、側室?」
「違います、側室候補、ということになるかと……いえ、それよりまだ前の段階といいますか……異国から美女が献上されたというだけのことでして……。」
しどろもどろになるリブの言葉を右から左に聞き流しながら千尋はもう一度部屋の中を覗いた。
大きな椅子に座って堂々としているアシュヴィン。
そしてその前に並ぶ美しい女達。
誰もが皆若かったし、肌も綺麗で、華やかな衣裳と宝石でその身を飾っていた。
一国の王に献上する美女となるとさすがに輝かんばかりの美しさで、千尋は深い溜め息をつくと扉から離れた。
「私、庭でちょっと気分転換してくるね。」
「はぁ…その……。」
「気にしないで、一人で大丈夫だから。リブはアシュヴィンのこと、お願いね。」
「はぁ……。」
こわばった笑みを浮かべて去っていく千尋をリブは溜め息と共に見送った。
これは今夜、ちょっとした騒動が起こるかもしれない。
リブは夜中に主の機嫌をとるという最も難解な仕事をさせられることを覚悟した。
夜。
寝台の側に小さな灯りを一つともしただけで、アシュヴィンは竹簡を広げていた。
もちろん、まだやってこない后を待っているのだ。
昼間は仕事に追われて食事も妻と一緒にとることができなかった。
だから、朝、おはようの挨拶をして、二言三言雑談を交わした以外、アシュヴィンは一日千尋の顔さえ見ていない。
どんなに疲れていても千尋がやってくるのを寝台の上で待っているのは、せめて千尋の顔を見てからでなければとても眠れそうになかったからだ。
ところが、待てど暮らせどなかなかその妻がやってこなくて…
アシュヴィンがとうとう耐えかねてリブに千尋を呼びに行かせようかと思ったその時、寝室の扉がゆっくりと開いて待ちわびた人物が姿を現した。
白のシンプルな寝巻きを着た千尋がゆっくりと近づいてくるのを見て、アシュヴィンは竹簡を脇へ退けるとその口元を緩めた。
「遅かったな。」
「へ、うん…ちょっと…考え事とかしてて……。」
「ほぅ、仕事で何かあったか?」
「ううん、たいしたことじゃないの。」
とは言うものの千尋の顔色は冴えない。
大きな寝台の上に上って、アシュヴィンの隣にちょこんと座った千尋は小さく息を吐いただけで何も言おうとはしない。
アシュヴィンはそんな千尋の横顔をじっと見つめた。
白い肌も碧い瞳も金の髪もどれをとっても美しい。
千尋が視線を感じて隣を見れば、アシュヴィンは機嫌良さそうな笑みを浮かべていて、思わず千尋は顔を赤くした。
「そ、そんなに見つめないでよ…。」
「何故だ?美しいものはこうして愛でるものだ。」
「美しくなんかないし…。」
小さくなっていく千尋の声に小首をかしげて、アシュヴィンは千尋の顔をのぞきこんだ。
いつもならもっとむきになってかかってきそうなものだ。
活動的な千尋がこんなふうにおとなしいのは珍しい。
「どうした?ずいぶんとしおれているな。」
「別にしおれてなんかないよ。」
そう言う千尋の声はやっぱり小さくて、アシュヴィンはぐいっと千尋に自分の方を向かせると真剣な眼差しで碧い瞳を射抜いた。
「アシュヴィン?」
「お前は美しい、陽の女神のようにな。」
「へ……。」
間近で、しかも真剣な顔でアシュヴィンに言われて、千尋は顔を真っ赤にした。
次に来るのはきっと猛抗議が罵声に違いないとアシュヴィンは予想していたのだが、事態はそうは転がらなかった。
千尋は小さく溜め息をついてアシュヴィンから視線をそらすと、そのままうつむいて膝を抱えてしまったから。
「…美しくなんか、ないってば……。」
ここでアシュヴィンは眉を寄せた。
千尋の反応がいつもとあまりにも違いすぎる。
これは間違いなく千尋の身に何かあったのだ。
「千尋。」
「なに?」
「お前、何かあったのか?」
「別に……。」
千尋の声には全く生気がない。
いつもアシュヴィンが耳にする千尋の声は楽しげな声であれ、怒っている声であれ、常にもっと生気にあふれている。
耳に届くその声音さえもが輝いているように聞こえるものだ。
その声が今はすっかりしおれてしまっている。
アシュヴィンは少し考えてから千尋の耳元に顔を寄せた。
「何を言っている。お前はこの世のどんなものよりも気高く美しいぞ。お前が自分の美しさを知らぬだけだ。」
「美しくなんかないって言ってるでしょう!あの人達の方がずっと綺麗だったもの!」
「あの人達?」
とうとう大声をあげた千尋の言葉にアシュヴィンが訝しげな表情を浮かべた。
千尋がしまったと思ってももう遅い。
「何の話だ?」
「何って……昼間、綺麗な女の人に囲まれてたじゃない……。」
渋々千尋はそう言って更に視線を下げた。
本当はこんなこと言いたくなかった。
こんなことを言ってもアシュヴィンを困らせるだけだとわかっているのに…
「綺麗な女?」
ところが、アシュヴィンの反応は千尋の予想していたものは少し違った。
そんなことで拗ねるとは皇の后としてどんなものかと説教の一つもされると思っていたのに、アシュヴィンは一言つぶやくように言ってから声をあげて笑い始めた。
「あ、アシュヴィン!笑い事じゃない!」
「笑い事だな、俺にとっては。」
「……。」
「まったく、お前は自覚がないにもほどがある。」
「へ?」
予想外の言葉に千尋は小首をかしげながらしげしげとアシュヴィンの顔を見つめた。
「確かに昼間、諸国から献上された女に謁見してたが、どいつもこいつもお前と比べると見劣りがしてな。全員故郷へ送り返した。」
「え?帰しちゃったの?」
「ああ、あんな個性も何もないただ着飾るばかりの女達など、いるだけ鬱陶しいからな。」
「鬱陶しいって……。」
あまりのアシュヴィンのいいように千尋が思わず苦笑する。
その顔をアシュヴィンがニヤリと笑いながらじっと見つめた。
「な、何?」
「お前はつまり…。」
「つまり?」
「昼間の謁見を覗き見して、それであの女達に妬いたのか。」
「…………。」
黙ったまま顔を真っ赤にする千尋にアシュヴィンはまた楽しげに声をあげて笑った。
「ちょっ、アシュヴィン!」
「まったく、無自覚にもほどがある。俺をこんなにも夢中にさせておいて妬いているとはな。」
「む、夢中って…。」
「夢中にさせているのはお前だぞ?」
すっと肩を抱き寄せられて、千尋は慌てて腕を突っ張る。
「それなのに俺を虜にしている張本人が他の女相手に妬いているとはな。」
「やきもちくらいやくよ…だって、アシュヴィンはたくさん妻を持つことができる身分だし…あちこちから綺麗な女人がいっぱいくるし…。」
「だから、あんな女ども、美しくなどないと言ってるだろう?」
「あんなって、それはあの人たちに失礼でしょ!」
今度は自分の腕の中でぷっと怒って見せる千尋にアシュヴィンは苦笑した。
相手をほめたらほめたで落ち込むくせに、けなしたらけなしたで説教をされるのだから困ったものだ。
それでも、妬いてもらえたという事実に気分をよくしてアシュヴィンは千尋を力任せに引き寄せると細い体を抱きしめた。
「そう怒るな。つまりはお前の方が俺にとっては数段美しい女神だし、他の女など目に入らんといっているんだ。」
「それは…あ、有難う…。」
「俺は生涯お前一人と今誓ってやる。だから、お前も他の男に移り気などしてくれるなよ?」
「しない!」
大声で否定してからアシュヴィンの言葉に抗議しようとした千尋の言葉はアシュヴィンの唇に阻まれてしまった。
あっという間に寝台の上に押し倒されて、深く深く口づけられて千尋は静かに目を閉じる。
さっきまでアシュヴィンの周りをどれだけたくさんの美女が囲むことになるのだろうと心配ばかりしていた。
けれど、そんな心配をアシュヴィンは一瞬で払ってくれて…
千尋は情熱的でそれでも優しい口づけを贈ってくれる夫の背にそっと腕を回した。
管理人のひとりごと
千尋ちゃんは色々心配したり妬いたりしてますが、殿下にしてみると「はぁ?」っていうお話(笑)
殿下は皇になっちゃったんで、そりゃ跡取りも欲しいしね。
あちこちから美女だ馬だと献上されるわけですが…
馬も黒麒麟よりいい馬なんているわけないし、女は言うまでもなく千尋ちゃんがいるのでどっちも興味なしと(w
でも、奥様にしてみたら夫の周りに美女がいるってだけで気になるのは当然のこと。
そういうところを殿下にはわかって頂きたかった(笑)
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