通りを歩くあかねの顔には満面の笑みが浮かんでいた。
手には夕食のための食材が入った袋が一つ。
その袋を軽く揺らしながら歩くあかねの足取りは軽い。
脳裏にはおいしそうに料理を食べてくれる旦那様の笑顔。
今日は少し寒くなったからメニューは鍋。
寒い冬に鍋の夕食はきっと楽しいだろうと想像すればするほどあかねの顔に浮かぶ笑みは深くなっていった。
一人で荷物を持って歩くのはとても久しぶりだ。
何故なら、いつもは必ず夫の頼久が荷物持ちにと一緒に来てくれるから。
でも今日は、頼久に急ぎの仕事があったので、どうしてもついてくるという頼久の申し出をあかねが断った結果、こうしてあかねは一人で帰路を急いでいた。
早く頼久に温かい夕飯を食べさせたくて、あかねは急いで家に帰ると、その扉の前で立ち止まり、バッグから家の鍵を取り出した。
はっと異変に気付いたのはこの時だった。
結婚する前からずっと、頼久はあかねが玄関の扉の前に立っただけですぐに出てきて出迎えてくれた。
ところが、今はあかねがバッグの中から鍵を探し出すまで時が過ぎても出てくる気配がない。
何かで家を留守にしたのかと小首を傾げながらあかねが鍵を使って中へ入れば、玄関には綺麗に頼久の靴が並んでいた。
元武士ならではの鋭敏な感覚を持つ頼久は、たとえ仕事に集中していてもあかねの気配が近づけば必ず気が付く。
ほんの少しだけ何かあったのかとあかねの胸の内に不安がよぎった。
それこそ元武士の頼久は腕っ節の強さで負けることはそうそうない。
だから、心配は無用と自分に言い聞かせてあかねが扉の鍵を閉め、ゆっくりリビングへと足を踏み入れれば、そこにはテーブルの上に視線を落として立ち尽くす頼久の姿があった。
「あの……頼久さん?」
ただいまと言うのも忘れてあかねが頼久に声をかければ、当の頼久はゆっくりと視線をあかねへと巡らせた。
その顔は真剣そのもの。
いや、真剣という言葉では足りないくらいの張りつめた緊張が見て取れた。
「どうかしたんですか?」
いつもなら慌てて駆け寄ってきてあかねが持っている荷物を取り上げる頼久なのに、今はただ真剣な表情でじっとあかねを見つめるばかりで微動だにしない。
何が起こったのかとあかねがゆっくり歩み寄ると、首だけ巡らせていた頼久の体があかねの方へと向きを変えた。
「あかね。」
「はい?」
「このような心配は無用です。」
「はい?心配、ですか?」
「はい。」
言われて初めてあかねは今、自分が出かける前、何か心配をしていただろうかと思い出してみる。
寒くなってきたから風邪をひかないようにしないとなというのは心配ではなくて注意しているだけのような気がする。
お料理のバリエーションを増やさないと頼久さんが飽きちゃうかな、も、心配というよりは気遣いだ。
いくら考えてみても頼久の言っている心配の意味がわからなくて、あかねは首をかしげるしかなかった。
「あの…確かにさっきまでは頼久さんが出てきてくれないので何かあったのかも、くらいは考えましたけど…そんなに頼久さんが必死になるような心配はしていないと思います。」
「私に隠そうとする気遣いなど、なお無用です。」
「いえ、本当に隠してません。何の話をしてるんですか?」
言いながら重く感じ始めた荷物を足元へ置いたあかねの視界の端をリビングの中央を占めるテーブルが通り過ぎた。
そこには出かける直前まであかねが読んでいた雑誌が無造作に置かれている。
よくよく思い出せばあかねを見つける前の頼久の視線はその雑誌の上にあったような気がして…
「どのように長い時間おそばにあろうとも、私があかねに飽きる、などということは絶対にありません。」
「はい?」
それはもう、選手宣誓をするかのようなみごとな誓いだった。
ただし、あかねはその誓いを受けて目をぱちくりとさせるばかりだ。
「えっと……私そんなこと思ってないですけど……。」
つぶやくようにそう言いながらあかねの視線がとらえていたのはテーブルの上の雑誌だった。
表紙に一番大きく書かれた雑誌の名前。
そしてその下には次に大きな字で特集タイトルが印刷されている。
『彼が飽きない女性になる!』
「ああっ!」
そう、頼久が睨むように真剣に見つめていたのはこの雑誌の特集タイトルだった。
だから「飽きるなどということは絶対にありません。」というさっきの発言になるのだ。
「違います!そんなこと思ってません!」
「ですが…ここには…。」
「その雑誌は特集記事を読みたかったんじゃなくてその下です!」
「下、ですか…。」
慌てるあかねを前に頼久の視線がゆっくりと雑誌へと戻って行った。
「ここです!ここ見て下さい!」
慌ててあかねが雑誌のもう一つの特集テーマの方をトントンと指でつつけば、頼久は雑誌に視線で穴を開けるのではないかという勢いでその部分を凝視した。
『この冬一番の鍋料理』
それが一番の特集の下に書かれた記事のタイトルだった。
「鍋……。」
「そうです!昨日、寒いから鍋がいいかなって思ったんですけど、どんな鍋がいいか思い浮かばなくて。ここに鍋の記事があったなって思い出したんです。だいたい、これ、私の雑誌じゃないですし。」
「は?あかねのではないのですか?」
「違います。私、週刊誌とか読みません。これはたまたまこの前蘭が遊びに来た時に持ってきて忘れて行ったんです。」
「そう、だったのですか……。」
「おいーっす………なんだよ、痴話喧嘩中かよ。」
頼久がほっと安堵の溜め息をついた時、ベランダから姿を現したのは天真だった。
勝手に庭に回ってベランダから上がり込むのはいつものことだ。
だが、この時ばかりは思わず頼久はギロリと天真を睨んでいた。
「な、なんだよ…。」
「痴話喧嘩などではない。私があかねと喧嘩をするなど…。」
「ハイハイ、あえりねーな。」
「うむ。それより、何しに来た?」
「あ、はい!私です!お鍋にしようと思ったから、大勢の方が楽しいかなと思って天真君誘ったんです。ダメでしたか?」
天真を誘ったのは頼久が楽しんでくれるかと思ったからだ。
頼久の許可を取らなかったのは頼久が仕事で忙しそうだったから。
頼久が真の友と呼ぶ天真なら嫌がることはないだろうとあかねは思っていたのだが…。
「ごめんなさい、勝手に……。」
「は?いえ!違います!その…不満だというわけではなく…。」
「おーい、俺がいる前でいちゃつくな、そこの万年新婚夫婦。」
「いちゃついてなどいない。」
「いちゃついてません!」
同時に否定されて天真は深い溜め息をついた。
「そこまで仲がいいくせに何をもめてんだよ。」
「私がいらぬ勘違いをしただけだ。」
「はぁ?」
むすっと言い放つ頼久の視線がテーブルの上の雑誌へと流れたのを天真は見逃さなかった。
そしてつられるようにその雑誌を一目見て、天真には全てが理解できた。
「あーーーー、なるほどな。またあかねが自分に飽きるんじゃないかと心配してるんじゃないかとか余計な気を回したわけだ。」
「凄い!天真君!」
「付き合い長くなったからな…っていうか、わかりやすいんだよ、こいつは。」
「そう、かな…。」
「単純単純。常に神子殿バカ全開だったろうが。」
「そ、そんなことは…。」
「あったあった。つまり、こいつがお前に飽きるなんてことは天地がひっくり返ってもありえねーから。」
「そんな心配してないもん…。」
「あーーー、わかったわかった。で、何鍋だ?」
「キムチ鍋だよ。寒い時には辛いものがいいかなって。私はあまり辛いのだめだから天真君は物足りないかもしれないけど…。」
「わーってる。お前の好みで作らねーと頼久が怒り狂う。俺は甘いキムチ鍋でも付き合ってやるよ。」
「い、怒り狂ったりはしないと思うけど…。」
などと天真とあかねが会話している間にどうやら落ち着いたらしい頼久は一つ深呼吸をしてあかねが足元に置いた荷物を持ち上げた。
「あ、私やります!」
「いえ、私が。料理もお手伝いさせてください。」
「でも頼久さんお仕事が…。」
「終わらせました。ですので是非に。」
申し訳なさそうに苦笑する頼久を見てはあかねも断りきれずに、こちらも苦笑しながらうなずくと、ドンという音が二人の耳に響いた。
「へ…。」
あかねが音のした方を見れば、テーブルの上に一升瓶。
「土産だ土産。俺は手伝わねーからな。客だし。」
「あ、うん、ごめんね。すぐ作るから待っててね。」
天真がこうして酒瓶片手に早めにやってきたのは、頼久と酒を飲みながら雑談でもしようと思ったからだったのだが…。
どうやらそんな暇はないらしい頼久は率先して荷物を手に台所に立った。
大きな体はひどく台所を狭く見せたが、隣に並ぶ小さなあかねの背中と並んでいるところは微笑ましい。
天真はソファに腰かけて一つ伸びをしながら二人の背中を眺めた。
「主に調理はあかねにさせてくれよ。俺、頼久の手料理食うとか若干気色悪いわ。」
「え、頼久さん料理上手だよ?」
「違う!男の手料理を食う俺が気持ち悪いんだ!」
「心配するな、お前に食わせるものは作らん。私の作るものはあかねに食べて頂く。」
「ヘイヘイ。」
すっとんきょうなあかねの答えと、そんなことは承知の上だと言わんばかりの頼久の答えを聞いて天真は笑みを浮かべた。
そして振り返って天真の様子をうかがっていたあかねもその顔に笑みを浮かべた。
こうして仲良く鍋をつつく冬を過ごせることがあかねには何より嬉しい。
あの京での冬を思えば…
京では頼久は明日命を落としてもおかしくはないことをしていたのだと思えば、今のこの瞬間は奇跡のような幸福だ。
「あかね?どうかしましたか?」
「幸せだなって思ってただけです。」
「……私が余計な勘繰りをしたせいで不快な思いをさせてしまったのに、ですか?」
「それも含めて、頼久さんとこんなふうに暮らして、冬には友達も一緒に鍋を囲んで…こういうのが全部幸せだなって思って。」
「あかね……。」
天真から頼久へと向きを変えたあかねの顔には幸せいっぱいの笑みが浮かんでいて…。
頼久はつられるように自分も笑みを浮かべると、隙ありとばかりにあかねの唇に軽く口づけた。
「よ、頼久さん!」
「私も幸せだと思っておりましたので。」
「おいこら!見えてんぞ!」
「わかっている。」
「わかっててやってんじゃねーよ!」
背中に浴びせられる天真の声には動じずに、頼久はあかねが買ってきた青菜を洗い始めた。
あかねが幸せだと言って微笑んでくれる。
それこそが頼久にとって唯一最高の幸福だった。
管理人のひとりごと
寒い!
管理人の生息地は既に最高気温がマイナスです!
もう毎日煮込み料理以外の料理を作る気がしません…
毎日おでんとかシチューとか肉じゃがとか作りまくっている管理人です(’’)
ということで、季節ネタ。
源さん家はキムチ鍋♪
な、お話しでした。
割を食った天真君には申し訳ないが、見せつけたかったんです(’’)(マテ
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