「頼久さん〜。」
頼久はあかねの泣きそうな声を聞いたような気がして目を開けた。
「神子殿?」
目を開けてみればそこはよく陽の当たっている自宅の縁側。
どうやら自分は昼寝をしていたらしいと気付いて、それから軽く頭を振って声のした方へ振り返った。
「頼久さん、助けてください〜。」
振り返った頼久のもとへ駆け込んできたのは半分泣きそうになっているあかねだった。
これは何事かと頼久の顔色が一瞬にして青くなる。
「どうなさったのですか?」
助けてくださいなどと言われずともあかねの危機とあればどんなことをしても助ける頼久だ。
身を乗り出す頼久の前にへたりこんで、あかねは涙を浮かべた瞳で頼久を見つめた。
「藤花(とうか)がどうしても鍛錬するって言ってきかないんです!頼久さんからもやめろって言ってください!」
「藤花、ですか?」
聞き慣れない名前に頼久は小首をかしげた。
はて、そんな名の人物が自分の周囲にいただろうかと記憶をひっくり返してみてもどこにも見当たらない。
「そうなんです!あああああ、もう、藤花!ダメって言ったでしょう!」
「いいえ、私もいつかは立派な武士になると決めたのです。父上のように毎日鍛錬に励みます!」
武士?父上?
頼久の耳に届いたのはあかねによく似た、けれどそれよりは少々子供っぽい少女の声だった。
慌てて頼久があかねの背後に目をやれば、そこには9歳か10歳ほどの少女が木刀を手に立っていた。
少女が手にしている木刀は頼久が鍛錬のために朝、庭で振っているものだ。
とすると、おそらくこの少女が藤花という名なのだろうと見当をつけて、頼久は少女を凝視した。
肩にかかる髪の色、色白の美しい肌、それに何とも言えない愛らしさ。
見れば見るほどどこかで見たことのある少女に思えるが、頼久の記憶の中にその少女の姿ははっきりとは刻まれていない。
「藤花?」
「はい。私も父上のように立派な武士になりたいのです!父上!私にも剣を教えてください!」
父上?
少女の口から発せられた思いがけない単語に頼久は目を見開いた。
よくよく見れば、少女はどうやらあかねによく似ている。
たまらなく愛らしいと感じたのはそのせいだろう。
となると、この少女は自分とあかねとの間に生まれた娘なのかと頼久が漠然と思い至っている間に、あかねが口を開いた。
「この子ったら、どうしても鍛錬するってきかないんですよ!女の子がそんなことしちゃダメって言ってやってください!」
「いや、その…。」
そもそもがそんなことを父親面して言っていいものなのかどうか…
そんな迷いが頼久の中にあるものの、この少女は間違いなく自分の娘だという確信もどこかにあって…
「いいえ!私は父上の娘です!私も父上のように立派になりたいのです!」
「頼久さん!助けてください!」
妻と娘、二人に挟まれて頼久は一つ息を吐くと、ここはやはり父親らしくすべきだろうと姿勢を正した。
あかねの言うことはわかる。
女の子に危ないことをさせたくはないだろう。
けれど、娘には娘なりの考えがあるのかもしれない。
「藤花。」
「はい!」
「どうして立派な武士になりたいなどと思ったのだ?」
「頼久さん?」
何を言い出すのかとあかねが小首をかしげても、頼久はただあかねに微笑を浮かべてうなずいて見せた。
ここは藤花の言い分も聞いてみるべきだろうというのが頼久の考えだ。
「それは…母上が、父上が立派な武士でとても強くて、そしてとても優しい方だったから結婚したのだとおっしゃったので…。」
「そ、それでどうして藤花が立派な武士になりたいってことになるの?!」
「私も母上に大好きと言われたいからです!」
「そんなの大好きに決まってるでしょ!」
「決まってなどいません!母上はいつだって父上が一番大好きじゃないですか!」
「そ、そんなことは…。」
「いいえ、絶対にそうです。ですから、私は父上のような立派な武士になって母上に好きになって頂くのです!」
「頼久さん〜。」
涙目で訴えるあかねに、木刀片手に目を輝かせる娘。
頼久は二人を見比べて頭をかいた。
藤花の言い分ではあかねは自分のことを何よりも大切に思っていると娘に語ってくれているらしい。
のみならず、娘はというと母がそれほどに想う父のようになりたいと思ってくれたというのがこの騒動の趣旨だろう。
だとしたら、頼久にとってはこんなにも幸せな話はない。
けれど、このままでは愛らしい娘が鍛錬を開始してしまう。
頼久がいた京でだって剣の鍛錬をしている女性などいはしなかった。
ここは止めなくてはと頼久は娘を正面から見据えた。
「藤花。剣の鍛錬をするばかりが武士ではない。それに、今はもう武士などというものは必要ない。」
「そんなぁ。」
「母上に好いて頂くためにはそれ以外の方法もあるはずだ。それを考えてみるといい。」
「武士にならずに母上に………。」
どうやら頼久の話は功を奏したらしく、藤花は愛らしく小首を傾げて考え事を始めた。
これは平和的に解決されそうだと頼久とあかねが微笑を交わしていると、当の娘はとんでもないことを言いだした。
「神子殿。」
「……へ?藤花、今なんて…。」
「私はこれから母上のことを神子殿と呼ぶことにします。」
「えぇぇぇっ?!」
「ど、どうしてそういうことになるのだ?」
「父上はいつも母上をそう呼ばれるではありませんか。なら、私もそう呼んだ方が父上に似ているでしょう?」
とんでもないことを言いだした娘に頼久とあかねは顔を見合わせた。
それでなくても妻を神子殿と呼ぶ夫は外ではずいぶんと気を使って名を呼ぶようにしているのだ。
娘までそんな呼び方をし始めたら、それこそ家族そろっての外出は絶対にできなくなる。
「藤花、それはダメ。」
「どうしてですか?父上はいつもそう呼んでいます!」
「それは、頼久さんは私の旦那様だからいいの。藤花は娘だからダメ!」
「そんなのおかしいです!不公平です!」
「頼久さん〜。」
またもやあかねから涙目を向けられて、頼久は苦笑した。
頼久にしてみてもあかねの呼び方を改めなかったという点においては自分にも責任があると思うからだ。
けれど、それとこれとは別の話。
ここはやはり娘を説得しなくてはならないだろう。
「藤花。」
「はい!」
「藤花はこの父と母の娘だ。娘が母上を母上と呼ばずに、誰が母上のことを母と呼んで差し上げるのだ?」
「それは…。」
「神子殿というのは父にとって母を何よりも大切に思う時の呼び名だ。藤花にとってそれは母上という呼び名になりはしないか?」
「はい…。」
「では、母上は藤花には母上と呼んでもらう方が嬉しいに決まっている。」
「そう、なのですか?」
「もちろん!」
不安げな視線を向ける娘ににっこり笑ってあかねが答えれば、娘はきゅっとあかねに抱きついた。
「母上!」
「うん、やっぱりそれがいいな。」
「わかりました!」
「わかってくれたならいいの。私は頼久さんとおんなじくらい藤花が好きだからね。」
「はい!」
「よかった、わかってくれて。じゃあ、その木刀は頼久さんに返して、藤花はおままごとでもして遊んでなさい。」
「いえ、読みたい本があるので、今日はそれを読んでしまおうと思います。父上、これ、お返しします。」
藤花は頼久に手にしていた木刀を返すと、可愛らしい足音を立てて走り去った。
その後ろ姿を見送る頼久の顔には幸せに満ちた微笑が浮かんでいた。
「はぁ、よかったぁわかってくれて。頼久さん、有難うございました。」
「いえ、しかし…。」
「しかし?」
急に頼久が困ったような苦笑を浮かべたので、あかねは小首をかしげた。
問題は解決したのに何を困っているのだろう?
少し心配になりながらあかねが頼久を見つめれば、頼久は藤花の去って行った方を眺めながら感慨深げに口を開いた。
「容姿は神子殿によく似てあんなにも愛らしいというのに、性格や口調はすっかり私に似てしまったようで…。」
「あああああ、そうかもしれませんね。立派な武士になる!なんて、確かに頼久さんに似たのかも。」
「神子殿に一番に好かれたいと思う辺りもです。」
「そ、それは子供だからですよ…。」
赤くなるあかねをそっと抱き寄せて、頼久は小さくため息をついた。
その様子にあかねが赤い顔のまま再び小首をかしげる。
「頼久さん?」
「私は人見知りをするのに気の強い手のかかる子供でした。藤花がそうならねばいいのですが…。」
「大丈夫ですよ。頼久さんに似てるならきっと素敵な大人になりますから。」
「神子殿…。」
「それより、次は藤花に私のこと母上じゃなくてママって呼ぶように言ってください。」
「は…。」
「頼久さんの真似してずっと母上なんですもん。私、一度可愛らしくママって呼ばれてみたいです…。」
赤い顔でうつむくあかねに苦笑して、頼久は必ず近日中に娘に話をすると約束した。
そもそもが自分の口調が原因なのだから、それくらいの労力を惜しむような頼久ではない。
頼久が確かにと約束するとあかねはぱっと花が咲いたように微笑を浮かべた。
「あ、そうだ、頼久さん、お昼寝の最中だったんですよね。昨日は夜遅くまでお仕事してましたし、今から私が膝枕しますからもう少し寝てください。」
「いえ…。」
「寝てください。私のせいで起しちゃったんだし。それに藤花は今頃本に夢中だろうし。」
「では、少しだけ。」
優しい妻の声にやっと心からの微笑を浮かべて頼久はその身を横にした。
頭の下に感じる温もりは幸せで、髪を撫でてくれる小さな手は優しい。
これほどに幸せな時が他にあろうか?
そんなことを思っているうちに、頼久の意識はぷつりと途切れた。
「頼久さん?そろそろ起きてください。」
優しいその声に頼久はゆっくり目を開けた。
その目に飛び込んできたのは申し訳なさそうに苦笑しているあかねの顔。
頭の下には柔らかくて温かなあかねの膝枕。
ああ、自分は眠っていたのかと意識を現実へ引き戻しながら、頼久は満面の笑みを浮かべた。
「すみません、起こしてしまって。その…そろそろ夕飯の支度をしないといけない時間で…。」
頼久は名残惜しく思いながらも上半身を起こした。
窓の外は夕陽で赤く染まっていて、時計を見れば時刻はもう午後5時。
確かに夕飯の支度をする時間だ。
「藤花は…。」
「はい?トウカ、ですか?」
キョトンとする目の前のあかねを見つめて、頼久は軽く頭を振った。
目の前にいるあかねは先ほどまで見ていたあかねとは少しばかり雰囲気が違っている。
「頼久さん、もしかして夢でも見たんですか?」
「夢…。」
ニコリと笑って言うあかねに指摘されて、頼久はようやくあれは夢であったかと気が付いた。
思い起こしてみればなんと幸せな夢だっただろう。
夢の内容を思い起こして頼久はその顔に幸せそうな笑みを浮かべた。
「あ、すごくいい夢だったんですね。」
「はい。それは幸福な夢でした。」
「どんな夢だったんですか?」
「神子ど……。」
「頼久さん?」
自分を呼ぼうとした頼久が途中で止まって凍りついたものだから、あかねは小首をかしげた。
あかねの前で頼久は何やらしっかりと考え込んでしまっている。
「あの…どうかしたんですか?」
「いえ……夢の内容でしたね。あかねと共に暮らしている夢でした。」
「へっ…。」
いきなり名前を呼ばれて幸せそうに微笑まれて、あかねは目をこぼれ落ちんばかりに見開いた。
頼久が二人きりでいる時に名前を呼んでくれることはめったにない。
そのめったにない瞬間が不意にやってきて、今度はあかねが凍り付いた。
「そ、その…どうして名前…。」
「将来のため、今より努力しておこうかと思いまして。」
「将来のため?」
「はい。」
あかねには何が何だか話がわからないけれど、頼久は何やら幸せそうだ。
なら問題はないかと、あかねは小さく安堵の息を吐いた。
「将来、子供ができた時に妻を神子殿と呼んでいたのでは問題がありましょうから。」
「ああ、なるほ…ど……。」
すんなり納得しようとして、頼久の言葉の意味に気付いて、あかねは一瞬で顔を真っ赤にした。
どうやら自分が何を言ったのかによく気づいていないらしい頼久は、相変わらず幸せそうに微笑んでいる。
あかねは慌てて立ち上がると、赤い顔を凝視されないように頼久に背を向けて歩き出した。
「お、お夕飯の支度しますね!今日は頼久さんのお誕生日ですから、御馳走いっぱい作ります!」
慌ててキッチンへ駆け込むあかねを見送って、しばらく忙しそうに働くその背を見つめて…
今日は自分の誕生日。
だから膝枕で眠らせてもらっていたのだったと思いだし、頼久は幸せいっぱいな笑顔のまま立ち上がると、あかねの隣に立った。
「お手伝い致します、あかね。」
「お、お願いします…。」
隣から聞こえる自分の名前はなんだかやっぱり少し珍しくて、あかねは首まで真っ赤になったまま料理を続ける。
そんなあかねの隣で、頼久は娘ができたらきっとあかねが藤姫から名前を一字もらって藤花と名付けたいと言い出すのだろうと想いを馳せていた。
管理人のひとりごと
頼久さんハッピーバースデー\(^O^)/
ということで、ちょっと未来の幸せな風景を書いてみたいなと。
でもそこまで話が飛んじゃうのもなと。
で、反則技の夢オチと(’’)(コラ
頼久さんの夢の中の娘なので、なんかすごく個性的な子になってますが(笑)
そんな娘もかわいいなと思う管理人(’’)
娘が頼久さんに似てたっていいじゃなぁい♪
息子があかねちゃんに似てるのは……まぁ、それもいいじゃなぁい♪
どっちに似たってかわいいさぁ(^▽^)
という管理人の妄想込みの生誕記念でした♪
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